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共感恐怖症が教員になる前に


教員採用試験の勉強過程で、最も多く目に・耳にした言葉の1つが「共感」だったように思う。

「共感的理解」「共感的な人間関係」といった定型句があるくらいだ。特に教育相談や生徒指導に関する本や記事には、ほぼ確実に「共感」の2文字があった。過去の作文や集団討論のテーマにも、しばしば取り上げられている。



私は、共感という言葉が苦手だ。


きっかけは、自分の中でかなりはっきりしている。
2年半前、失声症になったことだと思う。2ヶ月間、筆談で生活した。毎日それ用のメモ帳を持ち歩き、人前に立つ時はスケッチブックとマッキーが私の全てだった。

自分の意志で声が出せない、それもいつまでそれが続くか全く分からない。このことは、合唱サークルの責任代で、且つ練習を進める立場にあった私にとって、あまりに大きなパラダイムシフトだった。
メモ帳やスケッチブックに書くことは「よっぽど言いたいことだ」といちいち思われること。どんなに気にしてもらっても、必ずどこかで話に置いて行かれること。毎日「明日にも治るかもしれないから見学だけはしなきゃ」と自分に言い聞かせて練習に行って、歌わずに帰り、何ら変わっていない朝を迎えること。練習の中心に立つだけ立って、四六時中曲のことを考えた末、本番たった一人歌えないという未来が待っているかもしれないこと……
これらの苦しさ全部、なってみないと分からなかった。

過剰にナイーブになっていたのも間違いないが、その時の私は「大変だよね」「つらいよね」と言われる度に、「何が分かるんだろう」「分かられてたまるか」と正直思っていた。「大変」とか「つらい」とかで括られたその中に、どれほどのものがその人には見えているんだろう。そんな具体的な私の苦しさは実は何も想定していなくて、「会話できない=つらい」という漠然としたイメージだけを以て「つらいよね」と言っているにすぎないんじゃないか。
一番嫌だったのは、練習に来ても喉風邪で歌えない・喋れない日と一緒にされた時だ。「ああいうとき一番つまんないよね、分かる~!」と言われて、何も分かっていないんだと思った。その人なりの善意だと(そしてそういった時のつまらなさの重大さだって本物だと)理解していても、安直に誰かの経験・感情に私の感情が置き換えられて、デフォルメされてしまったことに、私は確かに傷付いた。

そして、はたと気付いた。自分は今ままでこれと同じこと、或いはそれ以上のことを、どれだけの人にしてきたんだろう。経験した人にしか分かり得ないことの存在に無自覚なまま、どれだけの人に「共感したつもり」「寄り添ったつもり」になっていたんだろう。どれだけの人を、安易な「分かる~」や「私も…」で、傷付けてきたんだろう。



共感を示すことが、時に人を傷付けるということ。そもそも同じ経験をし得ない他人の気持ちを理解すること自体、ものすごく難しいということ。
それに気付いたら、いつの間にか共感という行為は私にとって、高い高いハードルになっていた。
良くなかったのは、これによって人に相談されたり、悩みを打ち明けられたりすることまで怖くなってしまったことだ。巧みに人の気持ちを汲みとる力も、不用意なことを言わない配慮も、自信が無い。つい反射的に「分かる!」と口走ってしまいそうで、慮ったつもりの言葉で却って傷付けてしまいそうで、怖い。だから、「上手な共感」を求められるシチュエーションからは、なるべく離れようとした。

でも、私は多分、少なくとも数年以内にそうもしていられなくなる。「傷付かない共感」「上手な共感」を求めて、或いは共感ではないけれども確かに何かの捌け口を求めて苦しんでいる子が目の前にいる、そういう立場に立つ。教員になるということは、傷付けたくないがために共感から逃げるのではなく、正しい共感の在り方を、もっと言えば人の気持ちの正しい受け止め方を考え抜いて、向き合っていかなければならない、ということなんだろう。教採までの期間で、そういう覚悟の必要性を嫌でも思い知らされた。


私にできる共感とは、人の気持ちを受け止めるとは、どういうことなんだろう。

結論めいたはっきりした答を、教採までに出したかったけれど、結局出すことができなかった。今の時点で何となく頭にあるのは、「代弁しようとしすぎない」「知ったかぶりしない」「『大丈夫』を強要しない」etc. …? 呆れるほど消極的な言い回しばかりだが、何も拠り所が無いよりはいいような気もする。
1つ確かなのは、共感を怖いと思う今の気持ちを忘れないことだと思う。共感で人を楽にし得る立場だからこそ、その立場に慣れきって共感の怖さを忘れてしまうのが一番危ないと思う。「共感されたくないことは共感されたくないと主張して良いのだ」と伝えることも、私にできることかもしれない。

いずれにせよ、この問いは当分の宿題である。これから先しばらくの間、もう少しこの問いについて考える、という宣言の意味で、これを書いたつもりだ。

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