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アーティスト屋さんと希哲学者

もうかれこれ8年ほど音楽活動を続けていて最近は映画を撮り始めた。
哲学は幼い頃からのライフワークだ。

と言っても、哲学をやっていたのではない。
”私”とは何か?世界とは何か?人とは何か?
を考えていたら、それを先に考えていた人がいた。

それが哲学と呼ばれる領域で頭をフル活用する集団だった。
誰も哲学をしようと思って哲学をしてない。
自らの内なる疑問の派生として哲学と巡りあっている。

ただ個人の疑問から気づけば遠く離れて哲学の罠にハマってしまう人もいる。
自分のそもそもの問いの設定が身体から離れすぎると辛くなる。
だってそれはどうでも良いことを問うているのだから。

私の場合終始、人間とは何か。世界とは何か。リアリズムとは何か。この三つの問いが人生のテーマに感じている。幼い頃から現在までカフェでお茶を飲む時も、自転車で家に帰る時も気づけば考えている。この”気づけば”という部分が大切。
思考は思考の中から動機を作ることはできないから。
ただそのために思考し知を追い求めるこの在り方そのものが希哲学者なので私はそれ。と一応言っている。

バンドを初めても映画を初めても同じ。
結局は自身の問いが出てくる。人間の本質に迫りたい。人間と世界との関係性を描きたい。リアリズムを描きたい。

もうかれこれ10000回くらい聞かれた、何やってるんですか?
これは毎度毎度、疲れる。若い頃はその聞き方をした人をガン無視してた。

でも彼らにも悪気がないのも知っていたし、ガン無視する度に傷つく自分がいたことも知っていた。しかし、ガン無視という否定の行動を起こさなければ自分を守れないことがそれ以上に重要なことだった。

世界はいつも侵略的だ。
守らないとやられてしまう。適当な言葉を言わそうとする。
「あっそうです、アーティストです。」こんな言葉を吐いた時私は自害したくなるだろう。

守るとはなんですか?槍や剣から守るのですか。

のんのんのん。違います。

自己の精神の同一性を守るのです。
私が私でいられることを自分で維持することを守るというのです。

だから守る言葉の本質は維持にあります。

一応「バンドやっています。」と答えると「アーティストの方ですね?」こうくる。
「哲学してます」と答えると「学者さんですか」こうくる
「映画撮ってます」と答えると「映画監督ですか」こうくる

本当にどうでもいいことを気にしている人たち。それがないと安心できない人たち。剥き出しの”自分”を恐る者たち。

何を”やっている”かと”何者か”が一致するわけない。
私は私です。バンドをやっていたらアーティスト?
考えていたら学者?学者ってなんですか?大学の研究室にいる人ですか?映画監督って誰ですか?
”映画監督”という人を私は見たことがありません。
そんな人いません。

笑ってしまう。ちゃんちゃらおかしい。

答えはいつもシンプル

I don't know.

よく分からん。

それでいい。

習慣としてのI don't know.

適当な世界に適当な言葉を引っ張り出されないように。

世界に対して傲慢にならないように。


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