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愛することを、やめました。

あなたを愛するのをやめました。
「愛する」は動詞である、とかつて私は言ったね。
自分がそうしようとしてすることだと。
自分の意志をもって行う行為であると。
ならば、自分の意志をもって行為をやめることができるのではないかと。

自分の意志をもって行う行為とは、ひっくり返せば、自分でそうと決めればやめることができるということ。
自分から愛しておいて、苦しいとかつらいとか報われないとか言っていては、ちゃんちゃらおかしい。
苦しくてもその気があるなら、愛し続ければいい。何も返るものがなくても、自分がそうしたいからそうしているのだ、と思えば、それでいい。
だから、自分が思うように向こうから思われないのが苦しい、なんていうのは言い訳にならない。向こうから思われようと思われなかろうと自分の意志と望みで行動するのみ。

なので。
ここまで苦しいと感じて、それでも愛し続ける必要なんてないのだと、気づきました。
「愛する」ことに意味があったのは、一緒に仕事をして、その仕事がうまく回ることに貢献するという思いもあったから。
ただ自分の感情だけなら、たぶんもっと早く撤退していたでしょう。あるいは、最初から、愛そうなんて、そんな発想しなかったかもしれない。

「愛する」は、何度も言っていたけれど、相手が幸せでいてくれることを願い、それを実現するために自分ができることをしよう、と考え行動すること、あるいはそのモチベーションをもつこと。
その人が自分から遠く離れて、今幸せでいるかもわからない、確認もできない状況であれば、積極的に愛する必要なんてないんです。なぜなら、ただ、幸せでいてくれるかなぁ…と思うだけなら、必死に苦しみながら能動的に「愛する」までもないから。
きっと幸せでいてくれるだろうなぁ、ってほんわか思うだけで十分だから。

相手から、今自分がどんなふうか、元気か、どんなふうに過ごしてるか、何してるか、そんな近況を知らせてくれるなら、愛する余地もできよう。
しかしそれすら知らせられず、こちらから知りたいと思って働きかけてすら、ほとんど会話にならなくて、特別に知らされもしない。
そんな状況で、どうして愛し続けられようか。
それならもう、愛が届かないことに身悶えしながらわざわざ愛さなくてもいいよね。
仕事上のメリットがある、という利益がないなら、ただ自分の満足のために愛してるだけ。自分が愛することで満足したり、幸せになったり、あるいは愛を返してもらったりするのでなければ、こちらからそんなに愛する必要ないじゃないか。

そうして、「愛する」ことをやめて、ようやく憑き物が落ちたみたい。
自分が幸せと感じられる範囲で、喜びとなる範囲で、その人を想えばいいんだよね。無理してがんばらなくてもいいんだよね。
ひとを想うことなんて、がんばってやるようなことじゃあない。

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48歳まで平穏に順風満帆の人生を送った。その後にさまざまなものに出会いすぎた。
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