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ドラゴンズが大好きなのに

どうして教員になったんだろう。
ドラゴンズを語るお二人に触れ、そう思わざるを得ないひと時だった。私には何ができるんだろう。そんなことばかり考えていた。

先日、沖縄のジュンク堂書店で「愛するドラゴンズを語り尽くす会」というイベントが行われた。CBC(中部日本放送)の特別解説委員である北辻利寿さん、タレントの漢那邦洋さんとともに、文字どおり、ドラゴンズを語り尽くした。あっという間の90分だった。

奈良県生まれ。生粋の関西人である私がタイガースではなく、ホークスでもバファローズでもブレーブスでもなくてドラゴンズファンである理由を語るには、昭和49年まで遡らなければならない。読売ジャイアンツが9年連続で日本一になり、毎日のテレビでは19時半になるとジャイアンツ戦が放送され、国民を熱狂させていた。王貞治をはじめとするトップ選手たちに憧れる野球少年たち。身のまわりのほとんどが読売ファンだったように思う。

そのジャイアンツの10連覇を阻止したのが中日ドラゴンズである。10年連続優勝という金字塔を打ち立てようとしていたのと同時に、もしかしたらある主力選手がそのシーズンを限りに引退するのではないかと噂されていた年でもある。長嶋茂雄。のちに松井秀喜とともに国民栄誉賞を与えられた、言わずと知れた国民的英雄である。

10連覇と長嶋引退。ジャイアンツの宿敵であるタイガースのファンでさえも、「今年はジャイアンツでええんちゃう?」という空気に包まれていた年。それが昭和49年なのである。

国民の多くがジャイアンツを応援する中、今風に言うならば「空気を読まない」球団が首位に躍り出た。中日ドラゴンズである。そしてついに10月12日、20年ぶりの優勝を成し遂げたのだ。2位のジャイアンツとの差はわずか0.5ゲーム。元ジャイアンツの選手であった与那嶺監督が「テツに負けるな」と選手たちを鼓舞し、川上哲治率いるジャイアンツを退けた瞬間であった。

優勝した日は今ではほとんど行われないダブルヘッダーで、大洋ホエールズとの試合であった。第一試合に投げたのは松本幸行。投球間隔が極めて短い投手で、まさにちぎっては投げという言葉が似合うサウスポーである。第一試合に勝利したドラゴンズが第二試合に登板させたのは星野仙一であった。

青いユニフォームに身を包んだ星野が赤鬼のような表情をして右腕を振り続ける。最後の打者となる山下大輔の打球がサード島谷金二のグラブに収まった瞬間、雪崩を打って観客がグラウンドに飛び込んでくる。助っ人マーチンの帽子が奪われ、最後のボールも島谷のグラブから抜き取られていた。まさに歓喜の瞬間であった。グラウンドはむちゃくちゃになっていた。

その中日と大洋の試合を奈良県橿原市の少年が体を震わせて観戦していた。ジャイアンツの試合しか放送されない時代だったのから、おそらくどうやら今日で決まると踏んだNHKが放送したのだろう。「巨人大鵬卵焼き」の時代に近鉄ファンの父に育てられるとこうなるという典型である私は、空気を読まない球団に心を奪われてしまったのである。

それが1974年であるから、ファンになって49年が経つ。ブログにドラゴンズについて書く程度の物書きである私が、どういうわけか冒頭のイベントに登壇しないかとお誘いを受け、娘に「ついに夢がかなったね!」と言われながら沖縄日帰り弾丸ツアーを挙行するに至ったのだ。どんな思いで那覇空港に降り立ったか、想像していただきたい。

北辻さんと漢那さん。お二人にはさまれる形でイベントは進んだが、今シーズンの開幕オーダーや春季キャンプの話題で盛り上がる中、私はあることを考えていた。どうしてドラゴンズに関わる仕事を選ばなかったんだろう。ドラゴンズが大好きなのに。

中学時代から物書きになることを思い描き、文章を書きながら人生を生きようと決め、そして大学に入った。なのに私は営業マンになり、そして教師になった。生きていくために就職するのは当然としても、頭のどこにも「ドラゴンズで生きる」という選択肢はなかった。こんなにも好きなのに、である。

おりしも、沖縄で知り合った英語教員が今年で学校を退職し、日本ハムファイターズの通訳になると連絡をくれた。彼から届いたメールの文字が躍っているように感じたのは何故だろう。移動が大変だろうけれども、ついに英語を教える側から使う側にまわったのだから、しっかり頑張ってねと返信をしながら、私は彼が羨ましくてしょうがなかった。

北辻さんは中日球場(現在の名前はナゴヤ球場)のすぐ近くで生まれ育ち、中部日本放送に就職された方である。まさにドラゴンズとともに生きてこられた。漢那さんは長きに亘ってラジオ番組を持ってこられ、ドラゴンズの選手と握手をしながら試合前に談笑をしたお話を聞かせてくださった。

私はファン以上でも以下でもない。ほとんどの人間がそうであるので、それはまったくしょうがないと思っている。が、大学を選ぶ際、あるいは仕事を選ぶ際、どうして好きなドラゴンズを、あるいは野球を、選択肢として考えなかったのだろう。もしかしたら安きに流れてしまったのではないかと、イベント中に考えていた。大学や仕事を安易に選ばないほうがいいよと、教え子たちに、そして講演を聞いている生徒たちに、話している私なのに。

すでに還暦を来年に迎えようとしている自分に何ができるのか全くわからない。が、せめてこれからは物書きとして、ほんの少しでもドラゴンズに触れていってやろうと思っている。誰からも執筆料をいただけない媒体であっても。おそらくわくわくしながら文章を書くことができるだろう。

こんな気持ちにさせてくだすった北辻さんと漢那さんと、そしてジュンク堂書店の森本エグゼクティブプロデューサーに心から感謝している。

木村達哉

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