サドベリースクールとの出会い その1

思い起こせば、あれは大学4年の春、進路指導の教官との面接のあとだったろうか。留年していた僕はラグビー部の同期より1年遅れで就職活動などをしていた。

当時はまだインターネット黎明期で、殆どの企業がホームページなく、企業名鑑なるものが配られそれを最初からペラペラと見たが、一社としてピンとくる企業がなかった。そもそも、企業の営利活動にまったく関心がなかった。理系なので院に行き研究する道もあったが、そこにもまた興味がなかった。理系の大学生の選択は就職するか院に行くかの2択だったが、どちらにも関心がなかった。

「なんで、やりたいことがないのだろう。」

気づけば進学校に進学して、猛烈に受験勉強をして東大に入ったが、いつのまにか子ども時代に過ごしたような、やりたいことをやるあり方を失っていた。
その時、もちろんまだ子どもがいなかったが、将来、こどもは好きなことを見失わないように育てるぞ。と決めた記憶がある。

さて、5年目の学生生活ではちゃんと単位をとり卒業し、結局学科推薦で勤めた企業は1年で辞めてしまった。
もともとお決まりの人生を歩むような性格ではないとおもっていたが、それでも世の中のレールを踏み外した感は、はんぱなく、半年ほど家に引きこもり、普及したてのインターネットに興じ、ただただ日々、食事を消費し、世の中に何も役立っていない無価値感で、こんな自分など生きているだけでマイナスで、世の中からいなくなろうとする一歩手前だった。
その直後に恋愛をし、結婚を機にまた企業で働いていた。
システムエンジニアをしていたが、当時は中国インドが台頭して来て技術者は苦境にたたされると言われており、将来性が見えず日々悶々としていたが、乗り換えの駅の本屋でたまたま手にした大前研一さんの本をきっかけに、彼の創設した市民のための政策学校「一新塾」に行くことにした。
そこでは、それまでしらなかった日本の問題点をまなんだが、その中の一つに教育があった。当時はなにも教育に疑問を抱いていなかった。そこでの話を聞いていても、「言われみればつめこみかも」ぐらいしかなかった。しかし、一新塾でとりあげられていた財政問題や政官業の癒着、少子高齢化などのトピックよりは、学生時代に家庭教師やラグビー部のコーチが肌にあっていたので、自分にとっては教育は自分にとって最も関心のあることだった。その後、2人目の子どもがうまれる前だったが、思い切ってサラリーマンを辞め、家庭教師や塾講師をやりながら、教育について模索していく日々を送ることにした。2002年ぐらいの話だ。

(以前書いた記事だけど、書き直すと日付が今日になるんだな、、、。)

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