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『至らない』という言葉の先にあるもの

大人になってから、周りから「私は至りませんので・・・」という言葉を耳にすることが多くなりました。

この「至りません」の後に続く言葉。

「だから、わたしには出来ません」という断わりの言葉か、もしくは「至らないからこれくらいでお願いします」と自信のなさへの事前承諾をもらおうとしている時に使われることが多いように感じます。

金光教の言葉の中にも、「凡夫の自覚」という言葉があります。これは言葉の通り、「凡夫=自分が出来た(特別な)存在ではない、まだまだ至らない自分であることを自覚することが大事だ」ということで、上述している言葉の意味と一緒ですよね。「私は至りませんので…」

けれど、金光教教祖が使っていた「凡夫」に対してのその後につづく言葉は、まったく違うものになると私は思っています。

「至らない自分だからこそ、もっと努力させていただく。より良いものになっていくように努めさせていただく。」という求めに求め続けるという熱い気持ちにつながるものであると思うのです。

「自分が至らない」と自覚することはとても大切。

でも、その先にどのような言葉を続けていくのか、これもとても大切なことだと思います。

この世に生きる人の中で、完璧な人間、というのはありません。誰かしら、どこか未完成で至らないところがあります。だからこそ、皆が「至らない」という自覚を持ちあう中で、互いにお世話になりあう関係であること、自分のいうことが全て正解ではないことを理解して互いを尊重し合うこと、より良いものを求めていく心を育てていくことが大切なのではないでしょうか。

私もまだまだ至りません。文章を書くことも、信仰的にも、人間的にも。至らないからこそ、たくさんの人にお世話にならないといけない自分である。至らないからこそ、もっともっと求めて、挑戦して、頑張っていきたいと思っています。



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