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義憤に燃えて 第一章 天狗連その1

 二月の冷たい風が、頬に突き刺さる。一九二九年(昭和四年)の暮れに、東京から帰ってきてから、この二か月間、私はずっと家に閉じこもったままだった。しかし、このままではいけないという思いに駆られた。こんな状態をつづけていたら、厭世気分に陥って、自分で自分を殺めてしまいそうだったからだ。この数年間、私は死への魅力に取りつかれていた。死ねば楽になるのではないか、そんなことを考えてしまうのだ。一度、死のうとした経験があるだけに、それは現実味を帯びた感覚だった。
 生きるためにと言えば、大仰だが、私としてはすごく真面目な思いで、外に出てみることにした。延々とつづく畦道。一面に広がる田畑。遥か向こうには鹿島灘が、日の光を浴びてガラス細工のように輝いている。海と陸が絶妙に溶け合い、一幅の絵画を創出している。故郷はこんなにも美しかったのかと、私は見惚れてしまった。
 慣れ親しんだ風景とともに、幼馴染の顔が浮かんだ。従兄弟の黒沢大二だ。私と同い年で、母の実家の次男坊にあたる。
 元気にやってるのかな・・・。私は思い切って、彼の家を訪ねてみようと思った。
 大二君の家は銭湯を営んでいたが、その建物の建設に、私も一役買っている。私が大工の見習いをしていたときに建てられたものだ。私の体が病弱でなかったなら、今でも大工をつづけていただろう。
 そんなことを考えながら、懐かしい道を進んでいくと、公衆浴場『亀の湯』が見えてきた。思い出深い建物だ。まだ数年しか経っていないため、新築と言っても過言ではない。磨かれた真っ白なタイルは、全く変わらずに光を反射している。
 懐かしさに囚われながら、入り口の戸に向かった。そこで異変に気が付いた。暖簾が掛かっていないのだ。戸も閉め切っている様子で、何か文言を書いた札が掛かっている。「本日、定休日」の文字だ。
 そっと戸を開けてみた。確かに湯は沸かされていないようで、湯煙の姿かたちもない。番台にも人はおらず、あたたかな湯気のぬくもりも感じられない。その代わりとでもいうように、奥の方がなにやら騒がしい。
「そうだってねえ。いいねえ。ところで、森の石松ってのはそんなに強えか。」
「違う。違う。そこは『森の』を付けずに、石松だけだよ。」
 どうやら森の石松がどうのと言っている様子だ。白い衝立の裏から聞こえてくる。私は靴を脱ぐと、忍び足で脱衣所に近付いて、そっと衝立の向こうを覗いてみた。数名の同じ年頃の連中が車座になり、本を片手に真剣な表情となっている。その中には大二君もいる。大二君だけではない。同じく親戚の川崎長三さんや小池力雄、塙勝造、大内勝吉、鰐淵力之助の姿も見える。
「えっと、石松ってのは、そんなに強えか。」
 小池が本を睨みながら言うと、すかさず大二君が読み上げる。
「強いのなんのって、あんな強いのは二人とは、あっ、七郎。」
 覗き込んでいた私にようやく気付き、大二君は素っ頓狂な声を上げた。七郎とは私の幼名で、古くから親しい者は、私のことをそう呼ぶ。
「いや、すまん。なんか一生懸命だったんで、声を掛けづらくてね。」
 私はうしろめたさを感じ、言い訳してみせた。大二君は大二君で、照れくさそうだ。
「帰ってきてるとは聞いてたが、いきなりはないだろう。」
「だから、本当にすまん。ところで、何をやってるんだい。」
 車座の中に捻じ込むように入ると、隣に座る鰐淵が答えた。
「久しぶりだな、小沼。いや、実はな、芝居の練習なんだよ。」
「し・・・芝居なんかやってるのか?」
「ああ、そうさ。台詞合わせって知ってるか?稽古に入る前にな、お互いの台詞を確認し合うんだよ。」
 久しぶりとはいえ、一年も経ってはいない。だが、彼らは大きく様変わりしていた。こんな活動をしているなど寝耳に水だった。
「ど・・・どうして、柄にもなく芝居なんかやってるんだい?」。
 私の疑問に、大二君は恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「まあ、何というか、ちょっとでも、みんなを明るくさせようって思ってな。」
「明るくって?」
「この不景気で、どこも暗いだろう。特に農村は、豊年飢饉なんて言われて、米は獲れても価格が暴落して大変な時期だ。そこで俺は考えた。こんなときだからこそ、ちょっとでも明るくなってもらおうってね。それには何がいいか。よし、芝居だってね。」
 大二君は私たち若い衆の中心的な人物で、義侠心の厚い男だったが、まさか芝居を始めるとは思ってもみなかった。
「さすがだよ、大二君。俺も勤め先で、不況の酷さを目にしてきたから、その気持ちはよくわかる。」
「そうか、そう言ってくれると嬉しいよ。やっぱりちょっとだけ恥ずかしくてな。ああ、それから演芸団の名前は『天狗連』っていうんだ。」
「へえ、鼻を伸ばした素人集団か。本格的じゃないか。」
「どうだ、七郎。おまえも入らないか?」
 誘ってくれたことは大いに嬉しかったが、今日まで引きこもっていた私には、少し難題のように思えた。
「考えとくよ。」
 軽く流す感じで答えたつもりだったが、大二君は顔を曇らせ、心配そうに見つめてきた。
「七郎、東京で何かあったのか?」
 東京という言葉に他の者も敏感に反応し、私を凝視してきた。心配というよりも興味津々という目だ。
「何もないこともない。」
「なんだ、その禅問答みたいな返しは。確か、これで三回目だろ。」
 今まで数えたことはなかったが、確かに今回で三回目になる。
「そうだな。まあ、何ていうか、不況が原因だな。馬鹿らしくなったっていうか、さっき言ってたように暗い気分になったってところかな。」
「この前の製菓工場みたいなことが、またあったのか?」
 大二君から発せられた単語は、私にとって禁忌だった。それは忘れたくとも忘れられない出来事であり、私の世間を見る目を一変させた事件だった。私の中に死を意識させた事件でもある。
 製菓工場に勤めたのは、二回目の上京のときだ。本所に有った落合製菓という会社で、主にカルシュームカステラを製造していた。社長は、三十歳を出たばかりで、私の兄と懇意だったこともあり、私に目をかけてくださった。また、事業計画やこれからの夢などを話してもくださった。私は落合氏の意気に感じて、ここに骨を埋めようと決心した。どこまでも社長に付いていくつもりだった。
「製菓工場って?いったい、何があったんだ?」
 突然、問いかけてきたのは、塙だった。私は少し不快な気分となったが、こちらの事情など全く知らないのだから、責めるわけにもいかない。仕方なく、私は一連のあらましを語ってやることにした。
「そんなに聞きたきゃ教えてやる。ただし、長いぜ。」
 唯一、内容を知っている大二君は、沈痛な面持ちで目を閉じていた。

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