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世界の絶えずわからない問題

リビングでテレビを見ていると
グレースがやってくる。
グレースはフラットメイトのポーランド人。
家政婦の仕事をしている。
いやな天気ね、と言って彼女はキッチンに消える。
静かな雨。
濡れたレンガ。
鳥の鳴き声。
枯れた春の昼過ぎ。

グレースはコーヒーを手にリビングに戻ってくる。
何を見ているの?と尋ねて、
ぼくの隣に座るグレース。
テレビではネクタイを締めたおじさんと
メガネをかけたおばさんが声を荒げて討論している。
なんだろう?と返すぼく。
知らないわ、とコーヒーを啜る彼女。

こんな生活もうまっぴら!とグレースはよく言った。
金持ちばかりが得して、貧乏人はいつもひどい目に遭ってばかり。
週末になると決まって彼女は愚痴を吐いた。
資本主義が来る前のポーランドは本当に良かったのよ。
みんなのんびりしていて平等だった。
ぼくはなんにも知らない。
ポーランドのことも、冷戦時代の世界のことも。
でもグレースの行き場のない怒りはわかるような気がする。

テレビのおじさんとおばさんは学校の制服について議論している。
個性?しつけ?と書かれたテロップが画面を覆っている。
いいじゃない学校の制服、とグレース。
着るお洋服が無くてみじめな思いをする子もいるのよ。
個性なんて贅沢品、と言って同意を求める彼女。
そうだなあ、と答えてぼんやり天井を見るぼく。
足の長い虫が天井のシミを横切っていく。

世界は絶えずわからない問題をぼくの心に映しこむ。
ぼくは腕を組んでそれを遠くから眺めている。
追いつくより先に問題は次々に変わるから
ぼくの心は干したシーツのように終始揺れ動き続けている。

一旦火のついたグレースは止まらない。
制服の問題はすでに移民の問題に話題が移っている。
上半身をひねり、ぼくに向かって喋り続ける彼女。
ぼくは強張った腕をほぐし、深呼吸をする。
それから片手を鋭く振り上げ、失礼、と言ってから
足早にトイレに逃げこむ。
どんな問題も生理現象だけは止められない。

******

聞耳です。リーマンショック以来、地価が一足飛びに跳ね上がり続けているロンドン。先日のBBCの報道によれば上がり続ける賃貸料に多くの若者や移民が悲鳴を上げ、ついに政府が最低賃金の値上げを発表しました。*1 多くの外国人がそうするように、ぼくもシェアハウスで暮らしています。(以下の写真は2年前に暮らしていたシェアハウス。)

この家ではグレースを含め、他に8名と同居していました。ポーランド人カップル1組、ポーランド人女学生1人、ポーランド人ワーカー1人、ルーマニア人カップル2組。トイレとシャワーは2つありましたが、狭いキッチンとリビングスペースに時々うんざりさせられることもありました。そこには異文化交流、グローバリゼーションという耳障りの良い言葉で片付けられない、生の生活に関する問題が堆積しており、いろいろ考えさせられました。今でも当時の記憶を掘り起こして考え直すことがあります。

聞耳牡丹

*1: BBC (http://www.bbc.co.uk/news/magazine-35924293?SThisFB)

#詩 #散文詩

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