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意味論

川沿いの華奢なカフェ。
小さなテーブルと簡素な椅子。
仕事帰りの人。
お酒を飲む人。
新聞を読む人。
みんな西陽にすっぽり包まれている。
茜に乱反射する川面は無数の蝶の群れみたい。
週初めの夕方に
ぼくはビジネス日本語を教えている。

生徒はロバート。
商社に勤めるエリート。
磨かれた靴。
糊のきいたワイシャツ。
左腕にはロレックスの時計。
敬語ハホントウニ、ムズカシイト、オモイマス。
ロバートは笑う。
神戸と大阪で働いていたこともあるロバート。
取引先は日本のカワサキさん。

今日はビジネスメールの添削。
いつもお世話になっております、ハナンデスカ?
これは挨拶文で特に意味はないんだよ、とぼくは答える。
ナンデ意味ガナイノニ、必要デスカ?
そうだなあ、とぼくは腕を組む。
窓の外に目をやると
空が誘蛾灯のように発光している。
商習慣なんだ、と向き直って答える。
ショウシュウカン、とロバートはメモを取る。

来月日本ニ出張デス。
少し不安げな表情でロバートは言う。
聞けば取引先と重要なミーティングがあり
それが温泉宿場で行われるという。
日本ノ宴会ハ、意味ワカラナイデスネ。
ロバートは困った表情で笑う。
宴会かあ、とぼくは天井を見上げる。
二匹のアリが縦一列に並んだまま壁を横切っていく。
時には誰だって羽目を外したくなるんだよ、
ぼくは目を逸らしたまま答える。
ハメヲハズス、とロバートは辞書で調べる。

意味のない営みにも、愛し愛される価値が隠れているのかな?
すべての行為に意味はある?虫や草と同じように?
ぼくにはわからない。
誰かが解決してくれるまで
わからないままでもかまわない。

帰り際
来週の約束をしてぼくらは別れる。
じゃあ、と言って手を振ると
お世話になっております、とロバートが頭を下げたので
ちがうよ、と駆け寄って説明する。
ロバートは楽しそうに笑う。

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聞耳です。テムズ川沿いにあるSouthbank Centreというアートセンターで日本語を教えています。マンツーマンの会話形式です。ビジネス日本語を教えていますが、社会人経験がこんな風に役立つとは思いもよりませんでした。

Southbank Centreはぼくの特にお気に入りの場所です。理由は詩専門の図書館Poetry Libraryがあるからです。ぼくが初めてこの図書館を訪れた時、詩だけで満たされた空間に涙が出ました。それまで詩はぼくにとって恥ずかしいものだったからです。

子供用の絵本から詩専門誌まで、詩関連の書籍が20万点以上あると言われています。コンパクトなスペースながら、朗読を聞くための音声ブースや、個人で詩を楽しむスペースも用意されており、イベントも時々開かれます。

詩好きにはたまらない至福のスペース。オススメのスポットです。

聞耳牡丹

#詩 #散文詩

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