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物理学・生命、そして想像力

日経サイエンス2009年5月号「ブックレビュー特集」掲載

Macbookのドライブにtextsというフォルダがあって、何が入ってるのかなあと見ていたら、いやもちろんいろいろあるんですけど、その中にnikkeibookguide.txtというファイルを発見しました。あれ、日経に書いたことあったかしらと記憶をたぐってみて、そう言えば「日経サイエンス」にブックガイドを書いたのを思い出しました。検索した結果、2009年5月号に掲載されたもののようです。その当時の新刊レビューではなく、オールタイムのお勧め本をという依頼だったと思われます。今読んでも面白い本ばかりで、結構いいセレクションです。枚数制限の関係で個々の紹介が駆け足ですけど、ここに公開します。

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物理学・生命、そして想像力

 分子生物学とはエルヴィン・シュレディンガーの著書『生命とは何か』に強く影響された物理学者たちによって切り拓かれた分野である、と書いても、ひどい誇張とはいえないだろう。生命を分子レベルで理解しようというこの野心的な試みは大成功を収めたのだけど、分子生物学が成熟した結果、バイオという略語は主にバイオロジーではなくバイオテクノロジーを指すものになってしまった。もちろん、それはそれでかまわない。ただ、そこからでは、生命というものの普遍的理解にはつながっていきそうにない。その意味で、『生命とは何か』は今再び問われるべき問いなのだと思う。

 科学の他分野と比べるとき、「生命科学」のひとつの特徴は、それが対象とするはずの生命とはそもそもなんであるかが最大の問題だという点にある。そういえば、細胞内共生説で知られるリン・マーギュリスにも『生命とは何か』という題の本があった。

 そんなわけで、まずは金子邦彦『生命とは何か』から。副題に『複雑系生命科学序論』とあるように、複雑系の立場から生命の普遍的原理に迫ろうという壮大な試みのいわば入り口を書いた本だ。ああ、複雑系って言葉もいっとき流行ったよね、と思うあなた。世の中に複雑系バブルみたいなものがあったことはたしかだけれど、そういう流行とは関係なく研究を続けてきた研究者も少なからずいたことを忘れてはいけない。金子はそんな日本の複雑系研究を引っ張ってきた研究者のひとりだ。この本で金子は、ゲノム研究以降の網羅主義的な分子生物学に疑問を表明しつつ、生命現象のさまざまな階層を力学系の性質として統一的に理解しようという大方針を提示している。もちろん、生命とは何かという大問題が解決されているわけではないし、方針が正しいかどうかもまだまだわからないが、読めば元気の出る本だ。なぜなら、僕たちは生命とは何かを知りたかったはずなのだから。

 ところで、複雑系という分野の研究者には一種の物語構築力が求められる。とすれば、複雑系研究者が物語を書くとどうなるのか興味があるところ。そこで、円城塔『Boy's Surface』だ。抽象的な数理をテーマにして、それなのに恋愛小説で、しかも小説の内容そのものとはあまり関係なく物語自体が機能と構造を持つという極めて妙な作品の集まりなので、きちんとついていける読者は限られるかもしれない。でも、言葉の真の意味での「複雑系小説」を読んでみたければ、円城塔を読むべきなのだ。

 SFを続けよう。次はサイバーパンクの代表的な作家であるウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの共作『ディファレンス・エンジン』を。チャールズ・バベッジが構想した機械式コンピュータ「解析機関」が実用化されていたという設定のもと、ビクトリア朝のイギリスを描いた歴史改変SFだ。コンピュータが実用化されれば、遅かれ早かれカオス現象の重要性が認識されるに違いない。そんなわけで、この物語はカオスを中心テーマとして進む。カオス小説というジャンルがあるとすれば、これは間違いなくその中の最重要作品といっていい。驚愕のラストは、読んでのお楽しみだ。

 ポーランドという国でたったひとり、世界を震撼させるSFを生み出してきたスタニスワフ・レムの『天の声』もお勧めしておきたい。レムといえば、地球外知性の問題を正面から扱った『ソラリス』がもっとも有名だが、そのほかにもサイバネティクスに基づいたすぐれた作品をたくさん残している。中でも、地球外から届いた謎の情報をめぐって科学者たちが右往左往するこの『天の声』という物語は、科学的方法と認識の限界とをテーマとするサイエンス・フィクションの極北とも言えるもの。科学とは何かという問題に興味を持つすべての人に読んでもらいたい。

 ところで、僕自身はどちらかといえば保守的な物理学をやっている。そこで、最後に、物理学とはどういう学問なのかを平易に書いた本を紹介したい。その手の本ならそれこそ枚挙にいとまがないほどあるのだろうけど、僕のお気にいりは巨視的量子トンネル現象の理論などで知られるアンソニー・レゲットが書いた『物理学のすすめ』だ。素粒子物理学・宇宙物理学・物性物理学といった物理学のさまざまな分野における(執筆当時の)現状と物理学全体での未解決問題がうまくまとめられている。著者の専門が物性物理学だけに、物性物理学にも充分なスペースが割かれているのが特徴。二十年近く前の本なので表面上は古くなってしまった部分もあるけれど、著者の物理観がにじみ出て示唆に富んだ一冊という意味では、決して古びていない。

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今日はドイツのPopol Vuhによる"Letzte Tage, Letzte Nachte"のフィルムを。素晴らしいです

https://youtu.be/i2JnTD4rooc

#科学 #SF #書評 #複雑系 #物理学 #アーカイブ

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