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ここがヘンだよ、サステナブル。(サーキュラーとかリジェネラティブとかの単語が踊り狂う2020年の雑感と記録。)

サーキュラーやサステナブル、リジェネラティブなどの単語が踊り狂っていることへの違和感。と、少しの憤り。

最たるものは、
リゾート開発された宿泊施設に行き(?)、
身体を開き(??)、自然を感じ(???)、
生命の摂理を理解し(????)、
サステナブルでリジェネラテブな(?????)
リーダーシップを考える(!??????)
…などと謳うプログラム。

こういうの、あまりにヒドすぎるだろ。

普通に生きているだけ、食事しているだけで、無意識でも間接的にでも、環境や自然には「関わっている」んだ。まずはそれを丁寧に遡り、分解し、理解できることから理解するのが先だ。

良い社会を作る気があるのだとしたら、そうした「自分達の無知に対する理解」から始めるのが謙虚さだろう。生命の摂理や自然を感じよう、感じられる、なんて人間の感覚への過剰評価だ。ハッキリ言って、マヤカシ。

自然や環境や生物・生態系のことは、未だに分からないことだらけだ。だからと言って、人は畏怖や信仰に留まり、思考停止して来たわけではない。むしろ深く理解し、良い関係を築こうと努力をしてきた。観察し、働きかけ、関わり方を試行錯誤し、小さな法則(システム)を発見する。その積み重ねを「科学」と呼んだり、「営み」と呼んだりしてきた。

近現代に人がやらかしたことは一つだけ。この観察、理解という「丁寧な関わり方をサボった」ことだ。

特に戦後、食料と医療にかかる技術が進み、人が増え、その人の利便性向上のために、生態系の中で気付かないうちに、いや、少し気付いてはいながらも、"持ちつ持たれつの関係"から"奪う関係"に大きく寄った。

教育も、各地、各季節、各環境における在り方や関わり方を学ぶのではなく、産業成長や都市型人材の開発に向けた、ユニバーサルなものになった。

結果が今。

自然や環境が大切だと語る最近のメディアも、声高に謳い出した皆さんも。自分たちが受けてきた教育程度では、持続性や循環はもちろん、生物、生態系、環境との関わり方についてリテラシーがない、まったく分からないで語っている、と自覚した方が良い。(それほど複雑で、密な観察と対話が必要だという意味。)

にも関わらず、森でヨガしたくらいで自然の偉大さや生命の摂理を感じよう、なんて筋違いも甚だしい。自然との関わり方を身に着けずに資源を使いまくってきた企業や産業の無思考と、まったくの同根。思考停止、理解の放棄だということも自覚しよう。

まずは「自分ごとにする」ところから。

自分が食べてるお米の出処や、その環境や、従事する人の営みすら見てないのに、持続性?資源循環?何を言ってるんだ、と。まずは自分と家族の食事や生活の持続性の話からしましょうよ。

幸い田舎で暮らす人、山や川や海に関わりながら対話を続けている人、環境の力を借りて地域産業に従事する人たちがまだいる。細々と生き残っている。話せるし、会える。

それもあと僅か。10年もない。

そんな中、さらに思考停止を加速させるようなものを、のさばらせててよいのか?メディアやラーニング・プログラムも、在り方が問われる時。

全ての人が、改めて自然や生物、生態系との関わり方を試行錯誤し始め(続け)なきゃいけないんじゃないでしょうか?

僕自身も自分の無知に強い焦りがあって、大学の研究所にも身を置いたり、農林水産業をインターフェイスとして捉えて各地で少しずつ学んでいる。けど、小さな循環システムすら人間が認識するのは容易じゃない。「放棄」や「思考停止」はカンタンだけど、「観察」や「関与」はカンタンではない、と思い知っています。

なので、皆で学んだり、観察や行動したりしましょ。

そんなお誘いの場を増やしていきたいと思っています。

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