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27回目の結婚記念日に〜ブラジルの結婚式〜

 ブラジルは6/3(木)は宗教的な祝日(Corpos Cristo)で、土曜日との谷間の金曜日も自動的にお休みとなり、4連休となっています。宗教的な祝日はその年によって並びが異なるものが多いのですが(この祝日はイースターから数えて60日目とのことです)、ちょうど私たちが結婚式を挙げた27年前の6/4も連休の最中でした。

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 地球の反対側に住む者同士の、国際結婚の準備はなかなか大変でした。夫となる人は、日本での2年間の研修期間を終えすでに母国に帰国していましたから、先ずは連絡を取り合うことが容易ではありませんでした。国際電話代は高額で、メールもメッセージもなかった時代の話です。式を挙げる教会や、その後のパーティーのためのビュッフェ会場の予約は、全て夫となる彼に任せていました。ドレスの仮縫いや教会や会場の下見は、私が一度渡伯した時にまとめて済ませました。彼も仕事を作って来日し、私の両親に会いに来てくれました。

 カトリック教徒ではない私は、教会の「結婚講座」なるものに通い、その証明書を取得、教会に提出する必要もありました。現地教会から四谷の聖イグナチオ教会を紹介していただき、平日の夜、仕事の後に何回か密かに通いました。車の運転には全く興味が無かったのですが、「サンパウロで暮らすには車の運転免許は必要不可欠」と言われ、MT車の運転免許を苦労して取得しました。

 正式に結婚が決まってから、8年間勤めた会社に退職する旨告げて、94年の3月に円満に退職⁉︎という運びになりました。退職当日は送別会の後、抱えきれないほどの花束と、タクシーチケットで呼んだタクシーで都内から帰宅したのも今となっては贅沢な思い出です。

 その後の2ヶ月で、自分の渡伯の準備はもちろん、結婚式に参列してくれることになった両親のパスポート、チケット、ビザの準備をフルスピードで進めました。私は式の3週間前には渡伯することになっていたので、式の直前に到着する両親の旅に付き添うことは出来ません。両親にとっての初の海外旅行が地球の反対側のブラジルだなんて、ハードな旅になることは間違いありません。両親が路頭に迷わないように、ファミリーサービスも合わせて手配しました。

 両親のために予約できた便は、成田→ロス→リマ(ペルー)→リオ→サンパウロという、私でも経験のない超ロングフライトでした。乗り換えのない同一機で、乗っていれば誰でも到着出来るとはいえ流石に心配でした。私の便と同じくロス給油の直行便になんとか変更をしてあげたかったのですが、それも叶わぬまま両親を残して先にサンパウロに向けて旅立ちました。 

 こちらに着いて慌ただしく式の準備を進めているうちにすぐに両親が来伯する日がやって来ました。国際空港で出迎えると、二人は思いのほか元気そうでした。母などは「食事が6回出て、どれもとっても美味しかった」と興奮気味に喋りまくります。私は何回経験しても、機内食というものをゆっくり味わえない性分なので、偉いなぁと思いながら両親が何事もなく到着したことに安堵しました。

 それから三日ほど空けて、いよいよ結婚式の当日になりました。その日は昼食が済むと、身支度を整えた夫(となる人)がまず自宅アパートを出て行きました。教会での式は6時からでしたが、式後のビュッフェ会場に特別に日本食を入れることになっていたので、その手配などいろいろ雑務があったようです。

 その後、私のヘアメイク&ドレスの着付けのために、繊細な男性と女性のペアが自宅を訪れました。彼らとは英語は殆ど通じなかったので、私のカタコトのスペイン語と彼らのポルトガル語というチグハグな会話が始終続きました。まずはヘアメイクを済ませます。何をどう話したか覚えてはいないのですが、意外と話は通じるものだなぁと感心しました。そして4時ごろに「暫く行かれないから、最後のトイレに行っておきなさい」と言われて、その後ドレスの着付けが始まりました。その間に母は義家族の迎えで一足早く教会に向かいました。

 アパートに取り残された私と父は、リムジンの迎えで最後に教会に到着することになっていました。「リムジンのドライバーは場所を知っているので乗るだけで良い、何も話す必要はない」とは事前に聞いていました。「ブーケは出発までにアパートに届くからそれを持って車に乗り込むように」、とも。その時の私は、全てが段取り通りに進むと信じて疑いませんでした。何しろそれが当たり前の国(日本)から来たばかりだったのですから。

 ところが、ドレスの着付けが終わってリムジンが到着する時刻になっても、ブーケが届いた気配はありませんでした。ヘアメイクのペアがアパートの門番に確認してもやはり届いていないとのことです。さぁ、どうする?私の思考回路は一旦停止、それから下した決断は、「ブーケはなくても仕方ない。」でした。携帯もない時代で、教会にいる夫(となる人)に連絡を取る手段もないのですから、もはや打つ手もありませんでした。ここはもう腹を括るしかなかったのです。

 状況のよく分かっていない父も流石に心配そうでしたが、とにもかくにも二人でリムジンに乗り込みました。ヘアメイクの二人は後ろから別の車で付いて来るそう。ところが、車に乗り込んでホッとしたのも束の間、今度は日系のドライバーさんの開口一番の言葉に耳を疑いました。「どちらの教会に?」幸い、教会はサンパウロに着いたばかりの私でも説明出来るような簡単な場所にありました。「パウリスタ大通りの一番終わりまでお願いします。」晴れの日になんとも災難続きなことでしょう。

 冷たい小雨の降る土曜日の夕方に、リムジンは滑るように教会前に到着しました。扉の前で、待ち構えていた教会の方に、父の腕に腕を絡ませるようとの指示を受けました。そして扉が開いたら夫が待つ位置まで真っ直ぐバージンロードを進むようにと。父は夫に私を引き渡す時に、私のおでこにキスをする様に、そして母他、夫の親族が待つステージに上がるように、と細かく段取りを教えてもらいました。

 ヘアメイクのペアも扉の前に到着。「とってもきれいよ」と二人で言ってくれて、なんとも感慨深かったです。ほんの短い時間のお付き合いなのに、昔からの友達に声をかけてもらったような気持ちになりました。この街ではまだ新参者だった私には、頼りになる知り合いがあまりにも少な過ぎました。そして、何と、もう扉が開くかという瞬間に、教会の方がさっと私にブーケを手渡してくれました。ここで受け取ることになっていたのか!と一瞬気が抜けそうになりました。(やっぱりブーケはあった方が良いですね!)

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 いざ扉が開くと教会の高い天井いっぱいに重厚な教会音楽が流れ、バージンロードを挟んだ左右の席に参列者の方々のお顔が見えました。向かって左側には、こちらに親戚のない私に気を遣われて、夫の職場の同僚、日本からの駐在員の方々、アルゼンチンやチリから駆けつけてくださった関連会社の方、チリに住む私の幼なじみとそのご主人など、懐かしくにこやかな皆さんのお顔が見えました。反対の右側には、夫の親戚や学生時代の友人が勢揃い。何とも胸がいっぱいになりました。温かく注がれる皆さんの視線に、今までの不安な気持ちが少しだけ軽くなったような気持ちになりました。

 父と一緒にそろりそろりとバージンロードを進みます。目的地に到着すると、父は言われた通りに私のおでこにキスをして、ミッション終了とばかりに母の待つ舞台に上がりました。そして新郎新婦である私たちも。ここからは皆さんがお馴染みのシーンの始まりです。

 米国在住経験のある神父様のお気遣いで、神父様の私に向けてのお言葉、私の誓いの言葉は全て英語、夫側はポルトガル語での、バイリンガルの式となりました。舞台の上には、私側には私の両親、その当時駐在されていたご夫婦お二組が、夫側には義母と義弟、伯父夫婦二組が立ち会って下さいました。男性陣は(新郎を含め)貸衣装の礼服、女性陣は手持ちの黒を基調としたドレスに、貸衣装のシックなつば広帽子を被っています。

 誓いの言葉は神父様のお言葉を繰り返すだけだったのですが、間違えないように、となんとも緊張しました。指輪の交換をすると、クライマックスを告げるような音楽が聴こえて来ました。あぁ、式もこれで終わりか、とすっかり気を緩めた私は打ち合わせで言われたように親族に挨拶に向かいました。神父様が私の名前を呼ばれたので後ろを振り向くと、「まぁいいよ、続けなさい」と困惑顔の神父様。本当は挨拶の前に結婚証明書にサインをする必要があったのでした。。これもとんだハプニング。しかし、アルバム&ビデオ制作部隊がちゃんと編集をしてくれたので、記念の映像は本来の順番のまま収まっていました。

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 式が終わると皆でゾロゾロ同じ通りにあるビュッフェ会場に移動しました。こちらは厳粛なる教会の式と比べたらうんとカジュアル。ビュッフェで用意された食事の他に、夫が手配した日本食レストランのお寿司もちゃんと届いていて、皆さんに好評でした。

 式次第は本当にゆる〜いもので、夫の職場の上司が司会を務めて下さいました。日系のラジオ局や新聞社勤務だった、夫の母方の伯父がお得意のスピーチをして、おっとりとした、夫の父方の伯父が乾杯の音頭をとりました。後は皆さん自由にお喋りをしたり、音楽に合わせてカップルで踊ったり。日本の結婚披露宴の雰囲気とは大分違いました。私もやっとリラックスして、遥々訪ねて来てくれた友人と話をしたり写真を撮ったり、食事を楽しむことが出来ました。

 そうしているうちに不意に司会の方の「ここで新婦のお父様にご挨拶をお願いしたいと思います」というお声が聞こえてきたのです。思い返してみると、私たちから父にパーティー用のスピーチを考えるように、とは全く依頼してはいなかったのです。色々立て込んでいてそこまで気が回っていませんでした。これは大ピンチ!突然マイクを向けられた父が一番動揺しているはずです。即興でスピーチを考えられるほど、父は口が立つとも思えませんでしたし、これはまずい!と正直思いました。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら父を見ると、なんと父は貸衣装のジャケットの内ポケットからゆっくりとスピーチ用の原稿を取り出して、それを読み上げているではありませんか!これには本当に感動しました。私たちのために日本で原稿を用意して、無くさないように大事に持って来てくれていたなんて。この日の1番のハイライトと言っても過言ではありません。

 その日のパーティーは夜通し続きました。私たちも皆さんと一緒に、食べて、呑んで、お喋りをして、そして踊って。楽しく幸せな時を過ごすことが出来ました。あれから27年。夫とは日本で知り合ってからもう30年以上の年月が流れました。離れていた時期もありましたが、魂はいつも寄り添ってくれていたのでしょう。人生山あり、谷ありでこれからも色々あると思いますが、終わりを迎えるその時に「あぁ、幸せな人生だった」と心から言えるように努力を惜しまないことが大切だと思っています。

 今までありがとう。そしてこれからもどうぞよろしく♡

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【本日のサイドミュージック】

 式後のブッフェのダンスタイムにこの曲がかかっていました。ブラジルのカップルは、ワルツなどダンスを踊られるのがとても上手でびっくりします。私たちはといえば...それこそお互いの足を踏みそうになりながらぐるぐるとあてもなく彷徨っていました。長いドレスの裾がぐるぐる巻きになるのを見かねて、裾を手に持たせてくれた夫の伯母さん、乾杯の音頭をとられた伯父さん、教会で私側の証人を務めてくださった元上司はこの27年の間に鬼籍に入られました。

忘れられない、思い出の曲です。













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