鬱の記憶

 本来であれば、複数の対象領域間を緩やかに移り変わりながら、自己に関するイメージとそれをとりまく環世界を規定していき、またその過程において、世界に対する認識は連続的なものとなるが、今回の場合、視点が一つでなく複数同時に存在し、それらが並列的にかつ急速に対象領域間を変遷したため、一貫した矛盾のない自己イメージの形成においていささか支障をきたし、混乱状態に陥ったと推測される。
 視点の過度な増加と、それらの制御を失ってしまった原因としては、形而上、形而下の世界のシステムを同時に捉えようとしたことが考えられ、具体的にはそれは、遺伝子により規定された人間の生物的な価値評価システムの内側に自己を置いている状態で、それどころかそのシステムに過度に依存した行動をしばしば取るようになったところで、その状況をシステムの外側にある視点からメタ的に観測し、同時に非含意的評価を行う、ということを行ったことである。
 この結果、意味を見出した瞬間ことごとく前者の評価結果は否定され、没価値の世界が眼前にあらわれることとなった。いわばそれは基底が剥き出しになった状態であり、それゆえに五感の運んでくるあらゆる情報は生き生きとした意味に満ちており、同時にそれを認知した瞬間にそれらは空虚な素粒子の集まりに還元された。それはまるで、ゲームに熱中する子供が、画面の中の世界に入り込んだ自分自身を見出すたびに、今実際に自分がいる薄暗い部屋の情景を脳に差し込まれるような、ある種自虐的なプログラムを実行しているかのようだった。
 美しい景色を見た感動も、愛する者への恋慕も、そして私にとって最も抗い難い欲求であったはずの真理に対する探究心さへも、そのような価値を含む思考が生じた瞬間に、それらは脳内の報酬系における物理化学的な状態、そしてそれが生じるに至るまでの生物進化の過程、さらにはそれら全ての基盤にある物理法則、数学的真理、そして宇宙の誕生へとつながり、とうとうそれら全てが大いなる偶然と無以下の何かの組み合わせで、すなはち全部無意味なのであるということを、そのことを一瞬のうちに悟るのであり、同時にそれらに逆説的に価値を見出している自分を見出しており、あるいは見出せず、はて、そもそもこれはいったいなんなのかと、生まれたてのAIさながらのいかにも無な視点で目の前の時空を見つめようと目を凝らすのであるが、もはや目と耳と炊飯器の区別もつかず、無すら存在しない無に対して、自分と無の区別もつかなくなったそれは、わずかに残ったその自己成分でもって、それに対抗しようと最終決戦に乗り出すのだった。
 私は行き過ぎた。

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