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80年代ニューヨークヒップホップの立役者「Tuff City Records」〜Aaron Fuchインタビュー(2016) 後編

前編はこちらです↓

翻訳元の記事↓


イ: Ced-Geeとはどうやって出会ったの?
A: おれは自分の可能性を開花させることにフォーカスし続けていた。あるときCed-GeeはUltramagneticのメンバーであり、Boogie Down Productionsのアルバムのアンクレジットプロデューサーだと耳に挟んだ。スクラッチから発見したプロデューサーやアーティストはたくさんいるけど、その中でTeddy RileyとCed-Geeのgigが人々に求められるなんて思いもよらなかっただろうな。Marley, Punpkin, Master OCらも同じさ。おれはリスペクト、存在感、名声、どれだけ無名の人間をの身を立てたかを総合的に判断されることに興味がある。ヒップホップはちゃんとしたA&R目線をもつ伝記作家や歴史家を育てなかった。Francois Truffautは作家とされていた一人だと信じてるぜ。まだなにもやってないけど(笑)
イ; 一方でDef Jamに関する本はたくさんあるのにね。
A: いいとこつくね。それは当時の人間はDef Jamと競合していることは表現できなかったんだ。そうやって彼らによって葬られたんだ!彼らによるあらゆる攻撃から身を守ったのさ。Frenchが "noir"なものを定義したように、イギリス人は "Northern"であるソウルの種類を形成した。みな口々に言う "OK、おれは最初はちゃんとしてなかった。なぜならMr.Magicに賄賂を渡したくなかったからね。"とね。おれはレコードがプレイされるチャンスを三倍にすることができた。ベストを尽くしたんだ。別格の仕事だぜ。

Mr.Magicはニューヨークのラジオ局WBLSでヒップホップラジオ番組「Rap Attack」のラジオDJを務めていた人物です。

Mr.Magic↓

Mr.Magicとライバル関係にあったのが、こちらもニューヨークのラジオ局Kiss FMでラジオDJをやっていたKool Red Alertです。

Red Alert↓

A: 彼はR&Bが大好きだった。おれも同じくR&Bを愛してた。Red Alertは数少ない誠実なDJだった。彼は気に入ったレコードをかけた。賄賂を渡す必要がなかったのさ。Red AlertはThe 45 Kingを贔屓していた。だからThe 45 Kingのレコード制作は難しいものではなかったんだ。
当時、おれの役割はLakim Shabazzのアルバム製作だった。イスラムの名前をもつ受刑者たちからたくさんの支持を受けた、ラジオのヒップホップショーを聴いたんだと思う。だからMC La KimはLakim Shabazzになったんだ。彼の正統なイスラム信仰に敬意を表してね。
イ: Lakim Shabazzのアルバム「Pure Righteousness」はどのくらい成功したの?
A: あのアルバムはヒットシングル無しでリリースされた最初のアルバムだと思う。
当時、Times SquareのMusic Factoryと呼ばれていたレコード屋は世界に通じていた。おれが最初にウエストコーストヒップホップの変遷を目の当たりにしたのはそのレコード屋だった。
1984年に催されたNew Music Seminarに西海岸の連中が来て、レコードをたくさん持ってったんだ。そして東のスタイルに追いついたってわけさ。ヨーロッパからの旅行客も同じ。だからおれはLakim Shabazzのアルバムを作って、kufiやdashikiを着せた写真使ったと思う。アルバムは世界中で売れたよ。
イ: 初期のThe 45 kingのコンピアルバムはどんな感じでやったの?
A: おれはそんなに儲からなかった。ただDJのレコードを作ることを愛してただけなのさ。だれも情熱をもってDJレコードを作ってたやつはいなかった。業界を支配しているヒップホップレーベルによってDJレコードは追いやられてたんだ。おれは謙虚にDJレコードを作ってたぜ。
記念すべきDJレコードであるDavy DMX「One for the Treble」を作ったときはスクラッチのDJingという考え方は新しく、エキサイティングだった。音楽の暗黒地帯さ。
45 Kingのレコードを作ったとき、それは強烈な縄張りの内だった、まるで野球だよ。皆がホームランを打っている傍らで一人シングルヒットでプロフェッショナルの仕事ができる。それこそがおれがやってたことだった。


イ: 「The 900 Number」はあなたのホームランだったよね。
A: あれは長打だね。おれはMarkにあのサンプルを渡したけど何が来るのかわからなかったね。「Beat Suite」として始まったんだけど、4つのビートからなる4つのムーブメントなんだけど、その内のスローだが確かな2バージョンが後に「The 900 Number」になったんだ。DJ Koolの「Let Me Clear My Throat」一部にもなったり、Yo! MTV RapsのEd Loverのダンスに使われたりしたね。1988年にNew Orleansに行ったとき、「The 900 Number」をブラスバンドで演奏してるのを聴いた。おれは"「聖者が街にやってくる」のレベルまで来たのか?"と口に出したね。Flavor Unitの作品はニューヨークのラジオ局の政治によってとても強大になった。Mr. MagicはCold Chillin'の密かなパートナーだった。Marleyが彼のDJとなって、プレイするレコードを共有していた。彼らはプロモーションとして電波に乗せるレコードを作ることができた。だから彼らはやばかったんだ!まぁMarleyの素晴らしさも込みなんだけどね。
MC ShanからRakimへと続く進化がわかるだろ?Red Alertはそれと対峙した。Red Alertは自分に独占的にレコードを供給するチームを作り上げた。The 45 Kingはそのうちの一人だった。他にもBoogie Down ProductionsやThe Violatorもいたね。
The Flavor Unitはクリエイティビティの培養皿だったんだ。彼らは互いにベストなライムを作るのに腐心していた。いいレコードを出したことやプレイされるチャンスがあったことは知ってるだろ?もしそれが不愉快だったらプレイするDJに金を払わなければいいだけの話なんだから。
イ: Tuff Cityは唯一のFlavor Unitのオリジナルアルバムをリリースしたよね。あれは計画されていたプロジェクトなの?それとも曲を寄せ集めたの?
A: まず最初にフルーツサラダのカバーを計画した。なぜならSourceマガジンにこう言ってほしかったからね"ヒップホップ史上最悪なジャケットのひとつだ"ってね。だからこのアルバムは国際的になったんだ(笑)。おれはSkipper Stockmanという素晴らしいアーティストを抱えていた。この男がおれにアートワークを描いてくれた。こんなにうれしいことはないよ。ヒップホップはおれにとって芸術だった。「Flavor Unit Assassination Squad」はQueen Latifahのレコードを作るキッカケになった。彼女はポッセのなかで最も売れたアーティストさ。

イ: Chill Rob GとLateeは関係してたの?彼らはWild Pitchと契約してたはずだからね。
A: 覚えてない。おれはStu FineとChill Rob Gと仕事の類はやっていなかった.
イ: Lakim Shabazzの1stと2ndにはこんなに違いがあるの?
A: 1stと2ndの間に契約関係の争いがあった。もしQueen Latifaの成功の後、Markに話せば、いろんなレーベル、全Fravor Unitメンバーの形跡がある。彼らは良い条件の契約を得るまで仕事をしない旨のストライキを行った。そんなことが起こったもんで、失った勢いを取り戻すことは出来なかった。
イ: Lord Ali Ba-sakiと何があったの?あなたとアルバムをやったんでしょ?
A: 彼はめちゃくちゃ良かったけど、昼間の仕事を辞めたがらなかったんだ。ニューヨークでレーベル運営をする人間は常にニューヨークに関係する表現を聴くものさ。「the rat race」と「what makes Sammy run」はこのサイクルの気付きさ。
ヒップホップのインディーレーベルを運営してたとき頭の中は次のレコードのことばっかりだった。制作を流れさせなきゃいけなかったんだよ。
イ: 当時、The 45 Kingがどれだけ影響力があったか理解していた?特に彼のホーン使いだね。
Pete Rockみたいな人々の基礎となったんじゃないの?
A: ヒップホップはここ100年の音楽史から最も急進的に出発した。R&Bのサンプルを使うやつらは自分の言語を喋った。J Dillaの到来なんて予想だにしてなかったよ。当時のLinn Drumから頭をぶん殴られた気分だった。おれが関わっていたプロダクションのサンプルが聞くことができた。続いてるのさ。
おれはシンプルに「Impeach The President」に載せてSpoonie Geeを録音した。「You Ain’t Just A Fool (You’s An Old Fool)」と呼ばれた曲を彼に作った。Red Alertはおれに"こいつはプレイできないぞ。あれはヒップホップレコードじゃない、ありゃファンクレコードだ!"と言った。でもおれらはそんなレコードを制作するのが好きだったし、聴くのも好きだった。
もし「Impeach The President」をブレイクビーツとして考えるなら、「Impeach The President」はほぼ最初のヒップホップと呼べるだろうね。次にJames Brownの「Funky Drummer」を聴いてごらんよ。「Impeach The President」以前の最も人気なドラムビートさ。ファンクドラムとヒップホップドラムの違いが今に聞き取れるはずだよ。


イ: オリジナルのFlavor Unitが解散したのはなぜだと思う?
A: Luther Vandrossがこう歌ってた"すべては必ず移り行く" LAでのギャングスタラップの勃興やHammerのダンスが人気になったりさ。
おれらはLakimの二枚目に取り掛かるなかで勢いを失ってしまったんだ。MarkはおれにFlavor Unit全員がQueen Latifaの成功を受けてストライキしてたこと、契約内容の再交渉を望んでいたことを話していた。
イ: クルー全体がLatifaの1stアルバムに関わっていたらしいね。
A: Latifaの成功の種は彼女が女性の世界と男性の世界両方に訴求する力を持っていたことだよ。Flavor Unitのメンバーはリラックスしつつも厳格な仕事を彼女に提出した。LatifaはQueen beeだったからね。みんな宿題のようにライムを準備しなくちゃならなかった。彼女はアイデアのスケッチや自分のライムを描いていたね。ぶっちゃけ彼女よりクルーの方がよくやっていた。
イ: 当時のレコードビジネスの雰囲気はどんな感じだったの?
A: おれはゼロからすべてを始めなければいけなかった。そしてメジャーレーベルで嫌な経験をした。当時のMichael Jackson「Thriller」で乗りに乗っていたEpicで不運に付きまとわれた。濃い時間だったな。
おれがいた場所というのはMichael Jackson以外とは仕事をしないって感じだぅた。だからそこを離れたのさ。彼らがおれに投資したとしてもそんなギャンブルはやりたくなかった。
Tuff CityはEpicと、Def JamはColumbiaと手を組んでいたこと、Def Jamは初年度に75万ドルもの予算を持っていたのに対して、Tuff Cityは20万ドルしか予算がなかったこと。世界はこれらを知っておかなくてはいけない。サラリーキャップが導入される以前のスポーツファンはなぜメジャーチームがマイナーチームより選手に対して多額の金を出さないのかを知らない。贔屓にしていたチームの成績が良かった理由は潤沢な資金があったからなんだよ。
レコード会社で働く際、あの手この手のビジネスに手を出してネガティブなステレオタイプにフィットするのは簡単さ。おれがとても誇りに思っているポイントは80年代のTuff Cityからリリースされたレコードの9割がゼロから作り出されたってことさ。人々は完成されたアルバムをDef Jamに持っていく。なぜなら大きな予算があるからね。Cold Chillin'もそうかもしれない。そこの部分では太刀打ちできなかったからほとんどのアルバムはきちんと制作したよ。マスターたちをピックアップしてさ、そこにはちょっとばかし金をつぎ込んだよ。おれはA&Rと共にやったことが見える過去を愛するだろう。金でベストな才能を買えなかったからね。
イ: もうひとりあなたが契約した興味深い人物がFunkmaster Wizard Wizだと思う。彼は「Crack It Up」はとても良かったよね。
A: これについてはおれはディレクターじゃないからあれこれ言えないんだ。
レコードをプレイする唯一のチャンスはRed Alertだった。彼はとても早い時期にそのレコードをかけてくれた。
おれはDisco FeverでFurious FiveのMr.Nessの隣で酒を飲んでいたんだ。彼はおれに "このクラックと呼ばれている新しいドラッグをチェックしろよ"と話しかけてきた。Chuck Dがヒップホップを「黒人のCNN」と呼んだことを知ってるかい?おれはNational Enquirerだったのさ!Broadwayのマクドナルドにて聞いたことがない曲が流れていた。「Get Off My Tip」や「Put That Head Out」みたいな曲さ。聞いたときはクラック?なんのこと?って思ったけど、新しいドラッグのことだったんだよね。
Red Alertはこんなレコードもプレイしていた。アガったね。Kiss-FMのGMのBarry Mayoは"どんだけこの曲かけんだ!これは惨事だぞ!誇りに思ってるのか?"といった電話を受けていた。
Barry Mayoは "「Crack It Up」は素晴らしい、注意深く聴いてごらんよ、死の恐怖のなかで誰かが馬鹿げたダンスを踊ってるんだ。"と言った。おれは立ち上がってこう言った"違う!これはShakespearみたいに重要な代物だ!道化がやる死のダンスなんだよ" おれはそれをスタジオに持ち帰って、オーバーダブを施して「You better not crack it up」ができた。このレコードに収録されている
Bellevue Patientは2人の素晴らしいアーティストのコラボさ。Wizard WizとPumpkin。Pumpkinは絶頂期だった。生楽器とシンセサイザーを使っていたPumpkinは"OK、Dexter WanselとIsaac Hayesを聴くよ"と言ってすぐにレコードと同じ音を出してしまうのさ!


イ: Freddy BとMighty Mic Mastersとのストーリーはある?
A: Red Alertがプレイしてた(笑)おれは彼らを買った。彼らはSpider Dによるプロダクションの「It’s the Hip Hop」で成功していた。
おれらは次の作品としてPumpkinのキラードラムをフィーチャーした「The Main Event」を制作した。どれだけ素晴らしい人生だったかというのはどれだけ世界が大きかったかだったんだ。レコードの成功の上にブルックリンで最初のMCポッセだったこのグループは成っていた。彼らはBed-Stuyのメンバーで一風変わったテリトリーにいた。タレント集団だったんだけどレコードの成功が彼らの仲を裂いた。
イ: 実際に観たヒップホップのライブで一番記憶に残ってるのは何?
A: T-ConnectionのAfrika Bambaataaだね。どれだけヒップホップがポスト-ギャングだったのかを見ることができた。Crotona ParkのThe Cold Crush Brothersも良かった。
Wanda DeeがUltramagnetic MCのDJだった時のライブも観に行った。Kool Keith目当てにね。おれはライブアルバムがあるだろうことをいつも言っている。Bronxでのライブパフォーマンスだよ。ラッパーの伝統は "Is Harlem here? Is The Bronx here?" だった。Ced-Geeがやって、Kool Keithが "Is Alpha Centauri here?" をやった。
イ: Tuff CityからUltramagneticのアルバムがリリースされたという噂があったよね。すべてKool Keithが主張していたことだけど、Ced-Geeがクラックのためにブートレグを売ったというね。
A: Ced-Geeの件は正しくない。あの男はバスケットボールプレイヤーで健康そのものだぜ。彼は最もちゃんとした男さ。
大所帯のグループと接するとき、いちいち全員にグループの名前を使う許可をとらなくてもいいだろ?おれは彼らと仕事をして幸せだ。ビジネスにおいてはだれだってアップアンドダウンがあるし、自分自身の問題を抱えるんだ。全ての人を喜ばすことなんてできない。レーベルオーナーなら常にステレオタイプの的の中にいるだろうな。
イ: Ultramagneticのライブアルバムはリリースされるの?
A: 権利関係をクリアするのが難しい楽曲がたくさん使われてるから、「はい、次。」って感じですぐにリリースすることができない。
シーン全体がアンダーグラウンドだったころ、Bugs Bunnyの権利をクリアしなかったAntexxのレコードがあった。おれはプレス工場に行って「まだやってないアルバムのジャケットある?」と尋ねると「Hot Mix 5」のジャケットならあるぜ!」と言われた。だからHot Mix 5のジャケットでリリースしたんだ。25年後にとある人がイングランドからおれを訪ねてきてHot Mix Fiveのライセンスについて話してきた。だれだってやれるのはやれるけど、隠せはしないぜ!

以上です。

今の自分の英語力からすると難しい表現が多かったので、読みにくい文章になってしまいました。申し訳ございません。

天下のDef Jamにどうやって食い下がったのかが克明に語られていましたね。ホームランは打てないと自覚しつつDJに重きを置いたレコード作りはヒップホップ史に深みと厚みを与えていると思います。

私は文化には「目の前の現実とは別のチャンネルの世界、価値観を提示するもの」という要素があると思います。しかし現実を生きるにはお金が必要です。このインタビューからわかるようにTuff Cityはヒップホップ文化に大きな貢献をしましたが、ビジネス面ではそれに見合った対価を受け取っていないと思います。

「文化とビジネス」の関係は難しいです。


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