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人生で最も美しい夜〜Hank Mobley記事(1973)

Hank Mobleyとは1930年生まれのテナーサックス奏者です。Jazz Messengersの設立メンバーでもあります。

名門レーベル「Blue Note」に多くの作品を遺したことで有名です。

当時の批評家からは「テナーサックスのミドル級チャンピオン」と評されることも。

今回はアメリカのジャズ専門誌であるDownbeatが1973年に掲載したHank Mobleyインタビュー記事を抜粋しました。

翻訳元の記事↓

https://hankmobley.jazzgiants.net/biography/mobley-interview/

ではいきましょう。

 HankはピアニストのWalter Davis Jr.らと、Newarkのクラブの専属バンドで働いていた。
毎週、バンドのフロントにはニューヨークからのゲストが来ていた。
Billie Holiday, Bud Powell, Miles Davis。
そして1951年のとある週末、Max Roachがゲストとして演奏をした後、Mobleyを引き抜いた。
H「おれはまだ21歳だった。おれらはハーレムの125th streetのスポットで演奏してた。Charlie Parkerがずっと演奏していた場所でもあるんだ。
そこにはSonny Rollins, Jackie McLean, Kenny Dorham, Gerry Mulliganとか若いミュージシャンが来ていた。まじで恐ろしいぜ。」
 しかしMobleyはすぐにニューヨークジャズシーンの一部になった。
H「1番覚えているのは、おれとSonny Rollins, Sonny Stitt, Jimmy Heath, John Coltraneの5人は、自分たちのことを"Five Brothers"と呼んでいた。
おれたちはアルトサックスを演奏し始めたけど、Charlie Parkerがモンスター過ぎたから、みんなギブアップしてテナーサックスに移行したんだ。
 おれらはFats NavarroとBud Powellの演奏を聴いて、みんなで学んでた。
みんな20とか21そこらだったな。
周りと違うことをやるために実験したりさ。
大学に通ってるみたいな感じだったよ。
でもおれらはCharlie Parkerを打ち負かそうとしなかった。」

Charlie Parkerとはジャズのスタイルの一つである「Bebop」を始めたアルトサックス奏者です。Bebopとはざっくり言うと即興演奏です。

当方、楽器は何も出来ないので音楽理論などにはからっきしですが、即興といいつつも演奏するには技術と理論に基づいた、かなり高度なスキルが必要だそうです。

つまりCharlie Parkerは端的にいうと天才です。


 1950年代前半、ニューヨークのアバンギャルドジャズシーンは厳格かつオーソドックスなバップの始まりを宣言するために足掻いていた。
 Jimmy Heathの初期作はPerkerの影響を感じさせる。
しかしHank MobleyとSonny Rollinsは他の"Five Brothers"よりも前に、成熟したスタイルを確立していたように思える。
1951年から1953年の期間、Max Roachはニューヨークジャズの顔役だった。Max RoachはMobleyの処女作である「Mobleysation」をレコーディングした。
 バンドが解散したとき、Mobleyは簡単にクラブやスタジオ、ツアーの仕事にありつくことができた。

The Max Roach Quartet featuring Hank Mobley ↓


 MobleyがClifford Brownと一緒にTadd Dameronのバンドで働いていたころ、Max Roachはカリフォルニアで新しくバンドを編成していた。
Max RoachはMobleyに声をかけるも、バンドには引き入れられず、歴史を作ることはできなかった。
 そこから数年が経過し、MobleyはDizzy Gillespieが率いていたビッグバンドに加わった。3枚のレコードにMobleyの姿がある。
 その翌年に、Dizzy GillespieとMobleyはHorace Silverと合流した。
H「HoraceはMinton’sでカルテットバンドを持っていた。
Arthur Edgehill, Doug Watkinsとおれさ。
ある日、Art BlakeyとKenny Dorhamがジャムるためにやってきたんだ。
それがキッカケでおれたちは素晴らしいことを始めた。もしだれかが仕事をゲットしたら、おれらでその仕事をやるんだ。
Arthur Edgehillは他のやつとやってたと思うけどね。でもArt Blakeyはちゃんとやってたよ。
誰が仕事をゲットしても、金は平等に分けるのさ。
おれが思うに、あれは組合みたいな場所だった。Milt Jacksonも似たようなことをやり始めていたね。」
 1954年から1956年の期間に、Mobleyは彼自身の作品のレコーディングを始めた。
その時代に彼が作曲とディレクションを施した作品は大抵の場合、彼の最高傑作と考えられている。
 当初、MobleyはSavoyとPrestigeのセッションをやっていたが、しばらくしてBlue Noteと仕事をすることになる。
レコーディングはHackensackにあるRudy Van Gelderのスタジオで行われた。
H「金曜はSavoyのレコーディング、土曜はPrestigeのレコーディング、日曜はBlue Noteのレコーディングって感じだった。
 Blue Noteはレコーディングに食べ物を用意してたよ。サラミ、レバーソーセージ、ボローニャ、黒パンとかね。Blue Noteだけだった。他のレーベルはほんの少しだけ。
Alfred Lionがセッションを管理してたよ。Frank Wolffも後からそれに加わったね。」

Alfred LionはBlue Noteの創始者です。

彼はかなりのグルメだったらしく、ニューヨーク中の高級な料理を食べまくっていたそうです。

Alfred Lionはドイツ生まれです。1930年代にナチスから逃れるためにアメリカに亡命したそうです。

だからドイツっぽい料理が用意されていたのかもしれません。

レバーソーセージと黒パン(?)↓


H「おれたちがテープを作っていたら、時々、おれのホーンが金切り声を上げるんだ。するとFrank Wolffが"Hank Mobley!! おまえキーキーいってんぞ"って言うんだ。
そうなるとバンド全体が参っちまうんだ。
すると歩き回っている年老いたAlfred Lionが、"んっ!むむむっ!ちょっと待て、スウィングしてない"と言うもんだから、おれたちは笑ってたな。
 1950年代後半のMobleyはMax RoachとArt Blakey双方のバンドで1年間働いていた。
H「以前、Sonny Rollinsは少しドラッグにハマってた。その頃のおれはいつもクリーンだったから、いつもみんなおれを雇った。」
 しかしドラッグはバップやポストバップシーンが抱える大きな問題の一部だった。人生において避けられない問題のように思えるほどだ。
1950年代後半、Mobleyもヘロインの渦に溺れた。
 Arlene Lissnerの発言がドラッグの問題を的確に説明している。
A「今はドラッグへの知識がたくさんある。しかし昔は "Pakerはドラッグ中毒だったから、Pakerのような演奏をするには、ドラッグをするしかない" という考えがあった。」
M「おれには知識があった。おれがドラッグに溺れて失敗しているころに、同じように中毒になってる人がいた。その人ら18歳だった。
彼は人生とは何かを学ぶチャンスを得られなかった。
でもおれはドラックに溺れながらも、自分の楽器を学んで、金を稼いでいた。
今じゃドラッグの心配はしなくていい。
おれたちはドラッグと切れたんだ。過去の話さ。」
 1961年1月、Miles DavisはMobleyを雇った。それはMobleyにとって最も長い付き合いとなった。
H「おれはMilesに言ったんだ "おれはArt Tatumuのような演奏をする人と仕事したことがない" とね。
するとMilesは "それがおまえを雇った理由だ。おれはおまえがどう奴を解釈して落とし込むのかを欲してるんだ" と言った。」

Art Tatumはピアニストです。彼は片目を失明しており、もう片方もほとんど視力がなかったそうです。

楽器がわからない自分からすると、彼のピアノは「とにかく手数が多い」というイメージがあります。

Mobleyの円熟味のあるスタイルとはまた違った良さあるピアニストだと思います。


H「おれがMilesのバンドを去ったとき、おれは音楽や世界の全てに疲れていた。おれはまたドラッグに手を出した。」
1964年にMobleyは逮捕され、再び投獄された。
 Mobleyの人生で最も幸せな時間の1つはLondonに呼ばれたときから始まった。アメリカから出国した最初の旅だった。
H「フランスに着いたとき、パリ大学で暴動が起きていた。街全体がストライキの真っ只中だったんだ。
タクシーもつかまらないし、どこにも行けなかった。砂漠に置いてけぼりにされたみたいだったよ。
おれはその夜にChat qui Pecheで仕事をやらなきゃいけなかったんだけど、人々がライフル銃をもってウロついてたから "もう無理、遠すぎる!家に帰ってこれを眺める" って具合で、ホテルにチェックインして、部屋から外を眺めてた。

おそらくMobleyは1968年の「五月革命(または五月危機)」の真っ只中にフランスにきてしまったのかもしれません。

五月革命: 最初は当時の体制に異議を立てる学生運動だったのですが、瞬く間にフランス全土に拡がり、労働者のゼネラルストライキに発展したそうです。

デモ隊と警察隊が衝突し、「解放区」までできたそうです。


 パリはいくつかのジャズクラブを擁し、たくさんの良きアメリカ人がいた。
H「パリはアメリカよりもミュージシャン同士のコミュニケーションがある。
みんなLiving Roomで遊んでたな。」
 そこでMobleyは少年時代のヒーローであるDon Byasに会った。
H「彼は歳をとって丸くなっていたよ。でも決して若さを失ったわけではなかった。筋肉モリモリでさ、とてもストロングだったよ
Donは言った "おれは57歳。Hank おれの腹を殴ってみろ!" ってね。」

Don Byasはバップ初期から活躍したテナーサックス奏者です。1940年代からヨーロッパに移住していたそうです。

後に沢山のアメリカ人ジャズミュージシャンがヨーロッパに移住しますが、その先駆け的な存在ですね。

それにしてもDon Byasの発言はアントニオ猪木を彷彿とさせますね。

一歩間違えればMobleyもこの予備校生みたいになっていたかもしれません。

H「Paul Gonsalves, Don Byas, Archie Sheppとおれの4人で集まった夜があった。その夜をよく思い出すんだ。
クラブが終わって、一本のボトルを床に置いてから、みんな言うんだ "おれらは飲まないぞ" って。なぜならPaulとDonが酔ったら面倒臭いことになるからね。
おれらはテーブルを囲んで店について話すんだ。人生のなかで最も美しい夜のひとつだったね。
 翌日も朝からみんなでArchieの寝ぐらに行って、クッキングコンテストをやっていたよ。おれは朝食を作って、Donはコーヒーを淹れる。Archieはランチを作るんだ。家に帰り着いたころには午後だったね。
 素晴らしい日々だった。この経験はおれにどうあるべきかを思い出させるのさ。」
 Lester Young, Don Byas, Ben Webster, Dexter Gordonといった面々は若きMobleyにたくさんの影響を与えた。しかしMobleyにとってCharlie Pakerは別格だった。
H「"Just Friends" や "Soul Station" で足踏みしたことあるか?まるで高速道路を歩いているみたいだ。
"この街に疲れた。ここから出ていかなくちゃ" 誰もが言ってることだよ。
Pakerは現代のブルースやっていた。」
 モダンジャズのルーツはブルースである。Mobleyはそう言っている。
H「おれはいつも叔父から言われていたことがある。
"もしデカい音で演奏するミュージシャンと演るなら、おまえはソフトにやれ。
もし速いプレイが得意なミュージシャンとやるなら、おまえはゆっくり演れ。
共演者と同じことをやれば、問題が起きる。コントラストが大事なんだ。" ってね。」
 MobleyはTheronious Monkと1957年のほんの少しの期間だけ共演したが、レコーディングはしなかった。
H「Monkと一緒にやるのは難しい。彼は独特なんだ。
もしMonkのやり方にチャレンジしようとするなら、自分自身を打ちだそうなんて思うなよ。
自分にも言えることだけど、もしMonkとやるなら、出来る限りアッパーな音域で演奏するべき。後はMonkがなんとかするから。彼は正確なプレイが好きだからね。
自慢じゃないけど、Monkと共演したサックス奏者はColtraneとRollinsとおれだけ!
MonkとDizzy Gillespieは気に入らない演奏をされても何も言わない。
Dizzy曰く、"おれは絶対にクビにはしない。自らやめてもらうように仕向ける" って言ってたよ。」

MonkとDizzyのマネジメントに対する考え方がすごいですね。

1番怖いやつです。

 Mobleyのスタイルは深遠な変化を遂げた。彼は従来のスタイルを少しだけ修正したのだ。
Mobleyのメロディー構成と彼の関心が基本のリズムに集中していくことに関係はない。
 現在の傾倒は可動アクセントの網を創り上げること、さらにはメロディーをも変えるため。微妙な匙加減があっての構造である。
正確なタイミングが、この繊細なアートにおいてとても重大なのだ。
上部だけ取り繕って中身がスカスカな音楽はオーディエンスを馬鹿にするかもしれない。
Mobleyのプロジェクトは現在最も熱い音楽である。
H「レコード会社の人間は "レコードをつくれ。全ての努力を仕事に注げ。多くの人々に聴かれるような曲を作れ" と指図してくる。それも奴らは座ったままさ。もう疲れたよ。
Blue Noteはニューヨークの黒人ミュージシャンの半分を有していた。
今でも彼らのレコードは売られている。
奴らがやることは、ただ単にミュージシャンを抱えて、死ぬのを待っているだけ。
奴らは現在、Lee Morganから絞り取ろうとしている。断言するぜ。」

以上です。

Mobleyのヨーロッパ滞在記は味わい深いですね。掘り下げたら一冊の本が書けるんじゃないかと思うくらいです。

ゆくゆくはアメリカ人ジャズミュージシャンとヨーロッパの関係も調べてみたいと思います。


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