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Kurtis Mantronik インタビュー(2020) 前編

今回はMantronixのサウンドを担当しているKurtis Mantronikのインタビューを訳しました。

Mantronxはオールドスクール期に活躍したヒップホップデュオです。

それではいきましょう。

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筆者のF Scott Fitzgeraldは一度 "アメリカ人の生活にセカンドアクトは存在しない。" と発言した。しかしジャマイカ生まれNew York育ちのヒップホップの巨匠Kurtis Mantronikはおそらく反対するだろう。
1980年代に生まれたKurtis el KhaleelはエレクトロファンクデュオMantoronixの片割れとしてポピュラーミュージックの最も病的なビートの責任を担った。
同グループは1985年の「Fresh Is The Word」のヒットや、未だレガシーが後退することのない「Bassline」「King Of The Beats」「Hardcore Hip-Hop」「Needle To The Groove」......これらはKurtisとパートナーのMC Teeの地位を確固たるものにした。
1980年後半にKurtisはメジャーレーベル(Capitol Records) と契約して実質彼の最大のヒットを楽しんでいた。「Got to Have Your Love」というジャンルスマッシュヒットもある。
クラックが彼のレーベルにトラブルをもたらし、音楽的なテイストを変えた。長年のオーバーワークが彼に7年の空白を強いることになった。
物語は終わらなかった。LondonのFuture Soundでの成功を納めたリミックスはKurtisを音楽面へ連れ戻した。Kylie MinogueやSteve ReichそしてChemical Brothersのように枝分かれしたアーティストへの無数のミックスへ繋がっている。「sound of the summer」や2002年のIbizaの死に行われたKurtis Mantronik Presents Chamonix「77 Strings」への言及ではない。
現在南アフリカに住んでいるKurtisは新レーベルを発足させ、ビッグヒットの一つから命名した。「King of the Beats」Last Man Musicと関係している。「How Did You Know」「77 Strings」のリワークは今月の頭にリリースされた。今後続々と新曲が発表される。


909originalsはKurtisの興味深い音楽キャリアの上がり下がりを議論するために彼に会った。

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イ: Kurtis, 僕らのインタビューに応じてくれてありがとう。それじゃあ始めようか。最近はどんな感じ?
K: おれはLast Man Recordsとディールがあるプロダクションにサインしたよ。基本的に彼らはおれに自分のレーベルを与えてくれたんだ。King of the Beatsっていうレーベルをね。基本的に彼らはおれにやりたいことをやる自由を担保してくれてるよ。
Capital Recordsと契約してるときは、ある程度型が決まったレコードを作らなきゃいけなかった。実際それが売れて金になったんだけれども。なんか妙だよな。アメリカではまだ同じなのかどうかはおれは知らない。おれはPop departmentと契約した。当時、Pop departmentとBlack departmentっていうのがあったんだ。おれもPop departmentのフィールドを去ったんだけど、Black departmentはおれを欲してなかった。おれはアーバンミュージックをつくぅてたのにな。それは都会に住む人にとってとても未来的なサウンドだったと思うよ。
おれは普通じゃないことをやろうとしてた。そのいくつかは上手くいったけど、いくつかはそうじゃなかった。でもアメリカではおれの音楽をめぐるバトルがあったんだ。
おれがCapital、メジャーレーベルと契約した理由がそれさ。だっておれは莫大な予算、いいプロモ-ションを想像していたから。でもそんなことはなかった。当時、会社の人間はおれのやろうとしてることを理解してなかったんだ。おれはそれまでのMantronixから離れないといけなかったから「Got to Have Your Love」を作ったんだ。あれはそれまでのMantronixとは全く異なる曲だぜ。


それでもなお連中は理解を示さなかった。チャートにも名を連ねたのにおれはポップアーティストとして認められなかったんだ。おれは暗に定義されてたのさ。
イ: 今、King of the Beatsでは大きな自由があるの?
K: Yes, 時代も変わったし。やりたいことはとことんできるよ。前はマーケットに訴求する必要やラジオでプレイしてもらう必要もあったから決められたレコードを作らなくてはいけなかった。
今のラジオ局は朝にクラブトラックをフルでかけるんだ。そんなこと以前は絶対になかったことだろうね。
いつもローカルのラジオ局でかけるMantronixのレコードを手に入れるバトルだったよ。特別な時間だったね。
イ: ORIGINALシリーズで、僕はしゃべるために "オニオンの皮を剥く" っていうのが好きだよ。じゃああなたの最初の頃の音楽の思い出にさかのぼろうか。あなたはジャマイカで育った。あなたの音楽への影響はなんだったの?
K: 10歳のころにジャマイカを去ったんだ。おれは当時音楽に意識がいってなかった。ただジャマイカにいただけだね。レゲエは聞いてはいたけど、大のレゲエファンって訳ではなかったな。だっておれのプロダクションでずっと追っていたから。みんなレゲエをラジオかなんかで聴いてたのさ。
10歳になってからおれは家族とカナダに移住した。そこでロックにハマったんだ。ギターを弾くcool guyに憧れていたガキさ。おれの家族はギターを買ってくれなかった。そしたら今度、おれはドラムを叩きたくなったんだ。これまた許してもらえなかったけどね。おれは本当にうるさかっただろうからね。だから家族はおれにバリトーンチューバを買い与えた。
学校にオーケストラがあったから、楽器をそこで学ばなければいけなかった。おれは華奢な子供だったからバリトーンチューバは重すぎた。持ち運ぶことができなかったし、チューバを演奏するのが恥ずかしかった。だって当時のおれはロックンロールにハマってたんだぜ?
イ: あなたにとってNew Yorkはどんな感じだったの?ちょっとした心境の変化はあった?
K: 14歳の頃にNew Yorkに引っ越してきて、カルチャーショックを受けたね。学校に自分の自転車を乗っていくことに慣れたし、心配することなんてなかった。急に「bright lights, big city」だったな。
おれら家族はCentral Parkから2ブロック、Dakota Buildingから1ブロック離れた場所らへんに住んでた。
ある日、お母さんが仕事に行っておれはCentral Parkに遊びに行った。その時のおれは本当に誰も知り合いがいなかった。引っ越してきたての人にとってはNew Yorkは孤独な場所になり得るんだ。友達を作ろうとするけど、そこには本当にたくさんのカルチャーがあるんだ。
とにかく、おれはCentral Parkに行ったんだ。そしたらそこら中にローラースケートをやってる人たちや、boomboxを肩に担いだ人がいた。"おれもあんな風になりたい!" と思ったね。
それが最初のNew Yorkのアーバンライフの始まりだった。まじで。その時はラップは全然ビッグじゃなかった。でもぐんぐんキテた。ビートボックスをやってる人たちも目にしたよ。本当にクールだった。
おれのいとこがBrooklynに住んでいて、彼がおれに "ラップを聞いたことあるか?" と尋ねてきた。聞いたことはあったけど、ラップについて多くは知らなかった。いとこと彼の友達はGrandmaster Cazなんかのテープの貸し借りをやっていたんだ。それがおれの興味をわし掴みにしたね。彼らは "おれらと一緒にブロックパーティーにいこうぜ。" とおれを誘ってくれた。
全てが詰まっていた。DJはサウンドシステムを街灯にぶら下げて、人々は騒いでいた。ある人はスクラッチをして、ある人はラップをする。しばらくすると警察がやってくるんだ。これがラップの始まりさ。当時はラップがこれからどんだけビッグになっていくか、なんてことは話さなかったと思うよ。
おれは家に帰って、金をかき集めて、一台のドラムマシーンを買った。Boss Dr. Beatだぅたな。小さなCasioみたいな音出るんだ。1982年か1983年の出来事だね。
イ: あなたが坂本龍一の「Riot in Lagos」を聴いて、それが当時のあなたを形成したという話をどこかで読んだよ。


K: 当時、DJは黒人のグループが作った音楽だろうが、白人のグループが作った音楽だろうが気にしなかったね。クールなパートがあれば、DJはそのレコードをスピンするのさ。DJの一人が「Riot in Lagos」をカッティングアップしていたんだ。それを聞いてなんてかっこいいんだ!と思ったよ。
Dr. Beatが退屈になって、サンプリングが登場し始めるステージになっていったからおれはフロッピーディスクを使う小さなAkaiのサンプラーを買ったんだ。おれはサンプリングの価値ある2秒間をサンプリングしたと思うよ。
イ: その時どうやって機材のお金を捻出したの?これらの機材は安くなかったでしょ?
K: おれはクリーニング屋でデリバリーボーイとして働いて、1週間で20ドル。そこにチップも上乗せされるんだ。そしておれは貯金する能力があったんだよ。
Akaiのサンプラーの後は606を手に入れて、その次に303をゲットした。カセットテープに録音したり、ちょっとしたミックスしたりやり散らかしてたな。
イ: あなたがカナダに住んでいたころ、バンドを組みたいと思ってたみたいだけど、今のあなたは「ひとりバンド」だよね。音楽機材はすべて自分で揃えたの?
K: Yes. 正直に言うと、おれは音楽のやり方を習ったことが無かった。何かをサンプリングして、ピッチを合わせる。次にメロディーを作ってから、ビートを敷くのさ。これがリアルなMantronixの始まりなんだ。
おれにとって鍵となる機材は909だった。初期Mantronixの曲「Bassline」と「Hardcore Hip Hop」は909で作られたんだ。当時、ヒップホップに909を使ってる奴なんていなかった。おれはあれがダンス用だとは思わないよ。おれはキーボードを使ってmidi notesをプログラムできた方法を発見したんだ。パッセージを起こして、303とシンクロナイズできたんだ。


これが「Bassline」の作り方。この曲はアシッドハウスの前だし、後に世に出すべての前身なのさ。
そのころのおれはDowntown Recordsという店で働いていた。その店のDJだったんだ。だからおれは店に入ってきた新譜をプレイしないといけなかった。たくさんのDJがそこで買い物してたよ。
そこで働いてるときに、Will Socolovという一人の男が店に来た。彼は「Sleeping Bag Records」という小さなレコードレーベルを運営していた。Downtown Recordsのオーナーがおれら従業員を彼に紹介して、一緒にビジネスをやれるんじゃないかということを言ったんだ。
おれは「Fresh is the Word」のデモを持っていたから、それを彼に渡した。彼のレーベルはロックを扱っていて、多くの興味深いディスコを量産していたArthur Russelとも仕事をしていた。絶対にラップはなかった。
Willはおれのデモを聴いて、気に入った旨を伝えてくれた。彼はレーベルの人間にそのことを話したんだけど、なんせ彼らは古いロック好きだった。食いつかなかったんだろうな。"もしこいつのために自腹を切るってんなら、おれはやるぜ。" みたいにならなかったんだろう。
おれはスタジオに行ったら、そこにはおれがそれまで使ったことが無い808があった。だからビートをリプログラミングするのに1,2週間かかったよ。それがおれの最初のレコードになったんだ。
それが金儲けの始まり。その後にTricky Teeの「Johnny the Fox」をやったんだ。あれはすべて909だよ。
イ: MantronixのあなたのパートナーであるMC Teeが登場したのはいつ?
K: 彼はかなり初めのころからいたよ。彼は店のデリバリーボーイのひとりだった。彼はラッパーっていうより詩人だったよ。おれは他のラッパーを知らなかった。
おれはクルーに所属してなかった。カナダからNew York Cityに引っ越してきたただの華奢で場違いなガキだった。だからおれはラップを考えてくれと頼んだんだ。それが最終的に「Fresh is the Word」になったんだよ。


イ: あなたは当時聴いていた数多くのサウンドから影響を受けていたの?
K: 聴いてる曲はたくさんあった。punk, new wave, UKからのおもしろい曲もあったね。もちろんヒップホップやラップの最初期もね。
おれは異なるジャンルすべてをMantronixサウンドに持ち込もうとしていたと思う。それがおれにアイデンティティを与えたものさ。そこからサウンドが進化していったんだ。
イ: そのころの909をまだ持ってる?
K: No, DJ Cash Moneyにあげたよ。彼は絶対に返してない。
イ: 私たちはこれまで多くのアーティストに制作環境がベッドルームからスタジオへ変わっていくことについて話してるんだけど。あなたにもそんな経験あった?
K: 当時はベッドルームで曲作りをしてるキッズが大勢いた。おれはヘッドフォンをつけてベッドルームで踊ってたよ。自分がクールに感じられたね。でもオーディエンスはおれ一人だけ。
イ: Mantronixの名前の由来は?
K: おれは名前を考えようとしていた。自分のことをGrand Kurtisと呼んでいたけどあんまりしっくりこなかった。Downtown Recordsで働いてるとき、Boytonicというグループの一枚のレコードがあった。だからおれは自分にこう言った "よし、これをちょっと文字ろう。"
それがMantronixの名前の由来。それとXだ。Xは複数形だから使った。Mantronixのことはいつもバンドと考えていた。おれはKurtis Mantronikになったんだ。単数形だからKな。
イ: 「Fresh is the Word」は本当にビッグになって、当時「'musical Zeitgeist」も捉えたよね。タイミングが良かったの?、プロダクション自体が良かった?、それとも両方?
両方のコンビネーションだったと思う。おれが808を手にしたときや最初にヘッドフォンでその音を聞いたとき、本当にそのサウンドが気に入ったんだ。「Fresh is the Word」を制作したときおれはできるだけrawなサウンドにしたかった。それとできる限りシンプルにね。
例えば「Planet Rock」を聴くとわかるが、めちゃめちゃ加工されてるよな。おれは解体して、マシーンからのサウンドを使いたかったんだ。


イ: Arthur Bakerが「Planet Rock」でAfrika Bambaataaと仕事をしたと思うんだけど、彼はサウンドをでっぷりさせるためにできるだけ808の良さを引き出したかったのかな?
K: 彼は最大限に808を使いたかったんじゃないかな。だって808はそれ単体で硬い音が出るからね。「Fresh is the Word」を作ってるとき、これは最終的に「Planet Rock」みたいなサウンドになるな。と思ったよ。でもそれよりもrawなサウンドになったよ。
Arthurはロックのバックグラウンドがあるからパンチのあるサウンドを求めていたんだ。John Robieは当時彼のエンジニアだったと思う。John Robieはボトムエンドを808のキックから抜いていた。おれは反対のことをした。強調したんだ。
おれは機材のマニュアルを読まない人間だった。ただプラグを挿してなんとなく組み立てるんだ。
おれが音楽の教養が無い人間だということを忘れるな。楽譜とかわからない。だから凝縮した音を出すために手探りで自分のやり方を探求してたんだ。機材のパーツとサンプラーとドラムマシーンを一緒に使うんだ。
イ: あなたの最初の2枚のアルバム「The Album」「Music Madness」各アルバムが出た後、1985年と1986年だね。いつもすぐに結果を出そうという意志があったの?
K: おれがMantronixをやってたときはJoyce Simsの最初のダンストラックであり、808とEmulatorとYamaha DX7をフィーチャーした「You're My All in All」をやってた期間だった。サウンドをフルにするためにするためにそんな機材を使ったんだ。
Mantronixのサウンド以外、おれはダンスミュージックの自分のスタイルを考えようと試みていた。その後、おれは自分にプレッシャーをかけるために、Just-Iceとの仕事を始めたんだ。ダーティーハードコアヒップホップだぜ。
あれは何年も鳴り響いた。おれの頭はぶっ飛んじまったよ。それ以上行けなかった。おれは当時のテクノロジーを用いてできることはすべてやったと感じたんだ。

以上です。

後半は来週アップする予定です。


追記: 後半アップしました↓


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