微かな祈りを言葉にのせて
「描くことは祈ること」
きょう訪れた美術館で、好きな日本画家の絵の横にこんなセリフが掲げられていた。
戦争を経験し、自身や身近な人はもちろん、世の中の人々やこの世で起こるあらゆる事象に深く思いを馳せるようになった彼は、「画家一人の力なんてちっぽけだ、それでもわたしは祈ることに描く意義を、そして生きる意義を見出したい」と言った。
わたしは画面の美しい青色を食い入るように眺めてから、横に貼られた文章を何度も何度も、心の中で音読した。
昔読んだWeb記事で、作家の川上未映子さんがこんなことを話していた。
子どもを産んだことによって、作風が変化したとは思いませんが、フィクションを作ることが、どんどん祈りの形態に近くなってきたところはあります。(中略)フィクションが「こうあってほしかった」「こうでもありえた」という世界に近づいていくしかない、というような感覚があったんです。
フィクションは、祈り。その考え方にハッとして、いいなと思った。
わたしは描写の虜で、具体の虜で、描写と具体を何重にも重ねて出来上がる、わかりそうなのによくわからない、あるいはよくわからないのに心の奥深くでなぜかわかる、あるいはよくわからないのに本能的にわかってしまうストーリーの虜だ。
何も起こっていないかのようで何かが起こり、いつのまにか思いが巡り、読む人の心をざわめかせ、落ち着かせ、静かに揺さぶるストーリーの虜だ。
大事なことほどはっきりとは語らないけれど、メッセージがあるのかすらわからないけれど、脈々と作品の中に流れる血のようなものを感じとれる作品の虜だ。そして、目には見えなくても、一見絶望のようであっても、滑稽にみえても、たしかな、微かな、祈りがある作品の虜だ。
純文学が好きなのは、たぶん、そういう理由からなのだろうと思う。
わたしも、ちっぽけで構わないから祈りのある文章を書きたい。宛先は友達かもしれないし、家族かもしれないし、見知らぬ人かもしれない。自分でもいい。世界でもいい。
こうしなさい、こうあるべき、これはこうだ、これはこうなる、なんて言わない。たださりげなくそこにあって、祈る文章がいい。
きょう、そんなことを思った。
今年は小説をがっつり書いてみたい。
過去にも何度か挑戦したけれど、実際に書き上げることができたのは長編・短編ともに1作ずつ。長編は、前回書いたときに「こんなにも骨が折れるのか」と苦悩したので、まずは書き上げることを第一目標にしたい。
目標や期日があるほうが筆が進むから、応募先は早めに決める。傾向や枚数が賞によってかなりちがうし、テーマと応募先を決めるところが第一関門であり最大の難所かも。書くからには、調査・取材からみっちりやりたい。
カエデさんにならって行動ベースで計画を立てなきゃ。
noteも引き続き更新していく。好きな食べ物や風景や家族のことを自分のペースで、丁寧に、絵を描くように描いていきたい。やわらかくも芯のある文章を書きたい。そこにちょこっと、スパイスも入れられたらいいな。
コンテストは読む・書くきっかけをくれるので、今後もビビビッとくるものは応募する。新しいテーマと作品に出会えるのがとても楽しい。
最後に、文体の話。
文体の探求をこれからも続けたい。わたしは内容によって文章の勢いや使う単語の雰囲気を変える、というか勝手に変わってしまうタイプだ。そうやって言葉で遊ぶこと自体にわくわくする。
このテーマならこのテンションで伝えたいな、このわたしが登場するな、というふうに、表に出す自分が変わる。どれが本当の自分とかそんなのはなくて、全部自分だ。
でもそろそろ、方向性を絞って磨いていくのもいいかもなあ、とも思う。たくさんいい文章を読んで、自分でも書いてみて、「スキ」をみつけていきたいな。
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詳しくは書きませんが、昨年は本当に、大げさでなくnoteを通して出会った方々や文章を読んでくださった方々に救われました。つらい時期に助けてくれたのはみなさんです。ありがとうございました。実は年末に振り返りnoteも書いてはみたのですが、しんみりしすぎたので消しました。
これからもぜひ、いろいろ教えてください。遊んでください。わたしも、何かしらの形でだれかの力になれたらいいな。
今年もよろしくお願いします!
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