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10年続ける電通の人。

私が大学生のときに突如としてアメリカ合衆国からFacebookが上陸してきた。SNSの伝来である。

日本ではその前からmixiがあったようだが私はやっていない。あんなもの根暗の陰キャがコソコソやってるものだから興味もなかったし、そもそも他者とつながることの何がそんなに楽しいのかとバカにしていた。私が根暗の陰キャなのに。

がしかしFacebook。

爆発的な広がり方だった。この国にキリスト教と鉄砲がきたときもあんな感じだったんだろうか。

あれだけmixiをバカにしていた私も「アメリカからきたらしい」というだけでミーハー根性丸出しで即登録した。なんなら、ザッカーバーグがFacebookを作るまでの映画「ソーシャルネットワーク」もそれらしい顔をして見に行った。内容はよく意味がわからなかったが今になって改めてみるとめちゃおもしろい。


当時大学生だった私は宣伝会議主催のコピーライター養成講座に16万円はたいて通うことにした。

東京から高名な講師がやってきて「キャッチコピーとはこういうことだ!」と毎週2時間くらいの講義で教えてくれる。それを三種の神器かのようにありがたがって聴く私。当時小樽の片田舎の大学に通っていた21歳の私はそこで知るわけである。

王者「電通」の存在を。

大人ならば誰もが知る国内最大手の広告代理店だ。2番手が博報堂。電通と初めて聞いたときには「は? 電通? 広告代理店のくせに電気工事もやっているのか?」と思ったし、博報堂については「2番手は博報堂? 薬局事業もやっているのか?」と思ったものである。

コピーライター養成講座に通い、電通の存在を知った私はFacebookで電通社員を探すことにした。

彼らのようなクリエイティビティーにあふれた就活の金メダリストたちはさぞかしクリエイティブな投稿をFacebookにしているに相違ないと思ったわけである。その世界を覗いてみたかった。


調べてみると、たくさんの電通社員がクリエイティビティーにあふれる投稿をしていた。なかでも群を抜いていたのは、日常を自分で描いたイラストで表現し、エッセイ・日記のように投稿している人。あれはすごかった。10年以上も前だ。

いまでこそインスタグラムなどに自作のイラストを投稿したり、このnoteにおいては漫画エッセイなるジャンルもあるくらいだが、当時のとある電通社員は時代を先取りしFacebookでイラスト投稿をしていた。めちゃめちゃ絵がうまい。書く字も独特の風味を漂わせている。これぞ当時のクリエイティブの王道。なんとも痺れる憧れる。


やってみたい。


というわけでやってみたのである。ちやほやされたくて。私は札幌の人間だからまさか周りに電通社員と友だちの人間はいるまい。

ということは、この札幌界隈ではイラスト系Facebook投稿者としてのパイオニアになれるのではないか。そういう邪悪な、ただのパクリなんだけど、そういうことをやって、ちやほやされたくて、何回かやってみた。が、すぐやめた。

恥ずかしくなったからだ。

イラストをわざわざ書いて、それに文字を入れて、かつキャプション的な文章を入れて投稿することのアホらしさ加減には最初から気づいていた。客観的にほかの人が同じことをやっていたら、私ならこう思う。

「なんだこのタコ。自分はちょっと絵がうまいですよってか? なんなら、ほら私の書く文字も味わい深くて達筆でしょ? あ? 心がツルスケだっつーの! 透き通る世界にいるのかってんだ」

なので2回くらい投稿してすぐに消した。逆に言えば、そういうアホらしさ加減由来の「恥ずかしさ」よりも「ちやほやされたい欲」が大きい、なんとも若いかわいい牛若丸だったわけである。


ひるがえって思うのは、この空間でこうして「文章を書く」という行為にも同様の恥ずかしさがあるな、ということで。

思うに若い世代はとかくリセットしたがる。せっかく書いた文章をリセットしたり、作ったものをリセットする子が多い。それはweb空間の投稿に限らず、人間関係のリセット症候群にまで広がっているような気がしている。

30歳を超えた私としては、若者がなぜリセットをしたがるのかよくわからなかった。

これを書いて思うのは、単純な恥ずかしさが由来なのだろうということ。それと、周りを取り囲むノイズのようなものが多すぎて辟易してしまうことが原因であろうと思われる。これについてはちょっと考えが及んでいないのでここでは深く書けない。


10年前に見ていたFacebook上にいる電通社員を久しぶりに検索してみた。その人は2024年も変わらずにFacebookにイラストを投稿しており「すげぇ、変わってねぇんだ」と驚く。継続力に驚嘆である。

逆にいえば、私もそうなる可能性があるわけで。

これもいつか書きたいのだが、あらゆるコンテンツの賞味期限はもって1年、もしくは半年持続すれば御の字であろう。それを防止するために韓国アイドル産業は次々とアイドルを生み出し、SNSを駆使してコンテンツの沼にハメていく。

私がこうして文章を書き始めて2年が経過している。フォロワーさんの数が1桁のころから私のことを知っている人もいるし、最近知ってくださった方もいる。

賞味期限がよくて半年ということは、私の文章を継続的に読んでくれる方も期間は長くて半年ということで。たしかに思い返してみると、去る人をたくさん見てきた。さみしい気持ちである。

むかしはいっしょにマラソンを走っていたのに、いつしか「私はもうやめる」と言って走らなくなり、私だけが孤独なレースを続けている感覚になっている。バトルロワイヤルの生き残りみたいなもんで、もう、1年くらいずっとさみしい。


私の場合はこれまで書いてきたものを消去するつもりは毛頭なく、かといって書くことをやめるつもりもない。


なので読むことをやめた人も10年後にまた見にきてほしいなと思うのである。


あいつ、恥ずかしげもなくマジで続けてるわ、と思われたいのである。


<あとがき>
継続は力なりを学校でもっと強く教えるべきだと思っています。なにごともうまくいくまでの実験にすぎないのに、うまくいかないことが続くとすぐにやめてしまうのが人間です。私の場合、恥ずかしさみたいな感覚がこのnoteにおいてはある意味のバグを起こしていて、もう何も感じません。どんなクソみたいな文章でも、ほらよと投稿しちゃう浅ましさに支配されています。

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