めったに指摘されないけど、いざ指摘されたら恥ずかしいこと。
日々を過ごしていると、誰かの”何か”に気づいても、あえて指摘しないことがある。
それは例えば「自慢話が多い」であるとか「右目は奥二重なのに、左目はぱっちり二重である」とか、そういうこと。
「あなたは、やけに自慢話が多いですね」とあえて指摘することもないし「あなたは右目は奥二重で、左目はぱっちり二重なんですね」と指摘することもない。
何かを指摘された場合、
私たちの反応は3つに分かれる。
大体がこうだ。
…
私の両の手にはマメがある。
なぜマメがあるかというと、毎日クソ重いカバンを持って歩いているからだ。あまりに重いので、いつも右、左とカバンを持ち替えて歩いている。
決して、ジムに行って思いバーベルを持ち上げているわけでもなければ、ゴルフの打ちっ放しに行って300ヤード目指してブンブンとクラブを振り回しているわけでもないし、球速150km/hのストレートを目指して投球練習に励んでいるわけでもない。
毎日クソ重いカバンを持ち歩いているからだ。
年末、ある男性のお客さんと話していた。
50代のお客さんである。
一生懸命に生命保険の必要性を議論することが私の今の仕事であるから、身振り手振りを交えて、お話しした。相手も「そうですな」と納得してくれた。
商談がまとまった後、お客さんから言われた。
そう指摘されたのは初めてだった。
私の両手のマメは、たぶん結構目立つ。
身振り手振りを交えて話すので、マメがお客さんの視界に入るのも当然だ。
「あ、これですか。これは重いカバンを持って歩くので〜」
と説明すると、
と、少し残念そうだった。
「そうなんす」
と答えた後、思った。
(今まで会ってきた人たちも、この両手のマメの存在が気になっていただろうなぁ)
お客さんから手のマメを指摘されたとき、私の反応としては、特に何も思わなかった。先ほどの3つの反応でいえば、
[3]指摘されても特に何も思わない
に分類される。
が、一瞬だけ間があって、これまで会ってきた人たちもこのマメの存在が気になっていたかもしれない、ということを考えると、途端に恥ずかしい気持ちになった。
つまりは、
[2]指摘されて恥ずかしい
に切り替わったのである。
そう考えると、気にはなるけど、別に指摘することもないし、その理由を聞くまでもない瑣末なことというのがこの世には多いんだな、と思ったくらいにして、これまで会ってきた人たちが
(あ、この人、マメがある…)
(気にはなるけど、別にいっか)
(きっと、ゴルフとかするんだろうなぁ)
と、それぞれで納得していたのかなぁ、
なんて考えると少し面白い気持ちになる。
例えば、これまでのnoteの文章とかも、背後から漂う自信であるとか、読者さんにこう思われたいであるとか、そういうものを感じても、わざわざコメントで指摘するまでもないからみんな黙っているのだな、と思うと、なんだか恥ずかしい気がするのである。
ここから何か、一般論に昇華できそうな気もするんだけど、実力がないので、今日はこれで終わり。
指摘されて嬉しいであろうことを類推、指摘してあげて
[1]指摘されて嬉しい
という反応を人様に捧げられるような人間でありたいね。程よいバランスで。
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