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【き・ごと・はな・ごと(第16回)】フランス紀行―曼陀羅花木録(2)

香水の町として知られるグラースでのことだ。中心部から数キロ離れた花畑にでかけて戻る途中、往復をチャーターしていたタクシーの運転手さんが、とある広場の前に車を寄せて、やおら話しだした。

「ここに居並ぶ樹を、よーく見てくれ。あれは、その名をプラタナスというのだが、マダムはご存じか? 」

「はい。知ってます。ムッシュー」と私。

「ならば、あの樹、プラタナスが、この南仏の至る所で見ることができるのを、もう既にお気づきのことだろう」

「パリでも、リヨンでも、あちこちの街路樹になってましたヨ。ムッシュー」

「ウッ・・うん。ウン・・・そうかもしれない。確かに・・・パリにもある。だが、特に太陽の光りが強く照りつける、われわれ南仏のこれからのシーズンには、あの樹が涼しい木陰を作ってくれる。そういう意味で特別なのだヨ」

「はい。ムッシュー」

「ならばよろしい。さて、実は南仏にはも う一種類、代表的な樹があるのだ。それはオリーブなのだが・・・」

「オリーブは北フランスにはない」

「ウィ、ウィ、そう、その通り。パリにはない。われわれの住む南仏にこそ見られるものだ。あれから搾るオイルは香りが良くて上質だ。体にもいい。実もおいしい。あれの入ったピッザは最高だ。なには、さておき、プラタナスとオリーブ、この二つの樹が、南仏のシンボルともいえる感謝と恵みに満ちた木であるということを、マダム、どうか知っておいて欲しい」

唐突に始まったドライバー氏の植物講義には驚いた。さすがに、花の街のドライバーだけのことはある。

素直に頷く東洋からの客に気を良くしたのか、氏は「どうしても見てもらいたいものがあるから」と、そこから程近い場所に車を移動させた。瀟洒なレストランの入り口である。

「食事をするなんて頼んでないのに。ひょっとして私、カモにされかかっているの?」

ムラムラと沸き上がった不審と怒りがすぐに治まったのは、ドライバー氏の目的が、前庭のオリーブ林の中にある節くれだった老木そのものだと解ったからである。

ミモザやラベンダー、バラなどと同様、オリーブが南仏、とりわけプロバンスのイメージに欠かせないものとはいえ、海辺沿いのリゾートをウロウロしていても、ほとんどお目にかかることはない。広場や公園でシンボルを謳うカタチで植樹してある程度である。ところが、ここへ来る道中のこと、ニース発のバスがコート・ダジュール沿いの道路を走ること30分余り、いよいよグラースへ至る山道へとエンジンをフカし始めた途端、辺りの景色はオリーブ、オリーブに一変した。杉やイチジクなどが生い茂る雑木林、オレンジ瓦に石積みの壁の古びた人家、徐々に視界が広がる山間の田園風景、過ぎて行く景色のどこにあっても圧倒的なオリーブの群れである。その情景はまさしくオリーブあってのプロバンスなのだと実感した。

ドライバー氏が見せたいといったオリーブの樹齢はおよそ800年になるという。もともと長生きする樹木で、1000年以上になるものもあるのだととは聞いていたが、もちろん、この目にしたことはない。ネジ曲がって節くれた老木は、勢いよく枝葉を広げる若いオリーブのエネルギーの中にその身を預け、しかしながら悠然とした風情で佇んでいた。

国連の旗は、丸い地球をオリーブが抱いている。その例を引くまでもなく、オリーブは平和のシンボルと見なされている。が、そもそもの発端はどこにあるのだろう。旧約聖書では、ハトがノアの箱舟に戻ってくる時に、オリーブの枝を口に咥えていたことで、洪水が引けたことを知ったという話がある。だからオリーブは、ハトと同様に希望を告げる平和のシンボルとしての地位を得たのだろうか。またギリシャ神話では、オリーブをこの世にもたらしたのは、アテーナという勇ましい女神様である。

彼女はゼウスの頭から、武装した勇ましい姿で生まれてきた。気性の激しい女神でもあったが、その戦いも人々の生活を守るため。そして、織りや建築など暮らしを向上させる、さまざまな知恵を授けた知恵のの神様でもあった。その彼女が海の神ポセイドンと、どちらが人々に有益なものをもたらすことができるかと競ったあげく、ポセイドンは湖、アテーナはオリーブを選んだ。そして審査の結果、オリーブの方がより役に立つと軍配が上がり、その地の名前はその女神に由来してアテネと名付けられたというのである。お転婆な戦闘の女神だったが、最終的にはアテナの守護神としてアクロポリスのパルテノン神殿に奉られている。

—これはもちろん架空のお話しだが、それほどにオリーブの歴史は古い。オイルの製造に関しては紀元前3000〜3500年とも。栽培のみならば、紀元前6000年まで溯る形跡が、考古学上で認められている。

また、行事の際に身を清めることから始まって、薬用、美容、照明、食料と、さまざまに利用できるオイルは、それがあれば、豊かで平和な暮らしが適う。まさに神の恵みをもたらす『黄金の液体』ということなのだろう。

オリーブの花というのを初めて見た。ニースの丘にあるマチス美術館に隣接したオリーブ公園でのことだ。例年5月が開花シーズンということで、時期的にはちょっと遅く、まばらに残るほんの小さな白い花びらは、サワッとやさしい風が行きすぎたり、日差しがほんの少し揺らぐだけで、途端に銀白色の葉裏と同化してしまう。それと分かるように写真に納めるのが、至難の技だ。

初対面の花たちと悪戦苦闘の挨拶を交わしていると、近くで教会の鐘が鳴り響き、たった今ミサを終えたばかりと思われる人たちが、公園に入ってきた。銀髪の老夫婦が、祝福に満たされた表情で抱擁しキスを交わす。笑い転げながら逃げ惑う幼いわが子を追いかける父親。オヤジさんたちのくったくないお喋り。

わずかに緑の実を結んだオリーブの樹の下に絶え間なく繰り広げられる平安な時空の移ろいに、わたしは女神アテーナの放つ祝福の矢が放たれたのを微かに感じたのだ。

糸杉とオリーブの老木(グラース)
プタタナスの並木(ニース)
プラタナスの実
オリーブの公園で(ニース)
教会の壁にもオリーブが(リヨン)
小さなオリーブの花

文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞—平成10年(1998年)7月15日(水曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

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