疒日記3 | 因果とか調和について

1

悪いことをしたら罰が当たる、いいことをしたらご利益がある、という単純な因果はあまり好きではない。いや、好き嫌いの問題ではないか。これは、そうあってほしいという素朴な願いであって、別にこの世の摂理ではない。自然はそんな単純な法則で動いてはいない。だからこそだろう、荒ぶる自然の中にあって人は信賞必罰を求める。せめて自分たちの作る社会ではそれが徹底されるよう力を尽くす。そこに、病が、災害が、到来する。

単純な因果を信じていた人にとって災いは、罰でなければならない。となると、それに値する罪を過去に犯していなければならない。罪に応じて罰があるのではなく、罰だと見做された災いの原因として新たに罪が求められるのだ。

調和の帳尻を合わせるために、過去に遡って因果の◯✕があらためられていく。だが、そんなことをしてなんになるのだろう。天秤が釣り合うことなど絶対にないのに。こういうことを考えていると、大災害のあとで「天罰」と口にした元都知事のことを思い出す。



2

演劇史に燦然と輝く傑作、『桜の園』の一場面。真夜中にラーメンを食べに出かけた道すがら、ガーエフの何気ないぼやきをきっかけに、天罰についてのワーリャの興味深い考えが披露される。

彼女は言う、「悪いことをしたらバチが当たる」という考えは自惚れだと。生きとし生けるもの、そしてイケてないものまで含めすべてを司る神が、なぜ我々ごときに目をかけ、罰を与えてくれるのかと。彼女にとっては天罰を喰らうことだってじゅうぶん選ばれし者のしるしなのだ。神に愛されているあかしなのだ。そして凡庸な自分の身には決してそんなことは起きないと信じ込んでいる。

無論、それにしたって彼女が彼女なりの生を生きる上での自己正当化にほかならない。決して何も起こらない人生だと意固地になることで、かえって「しるし」を神格化しているともいえる。だから彼女は、みずからの人生に何の兆しもささぬよう、細心の注意を払い続けているのだ。運命的潔癖症。

ところで『桜の園』というのは、あのチェーホフの、マジもんの名作ではなく、2012年1月に東京で上演された悪魔のしるしの演劇作品である。厳密にいうと正式名称は『桜の園』ではなく、その上に『悪魔のしるし』を重ねたもので、文字で表すとこうなる。

音声で表現する際は一人では無理、必ず二人で同時に声に出すように、などと当初は指示してたが、そんな面倒くさいことは誰もやらないし、だいたい僕自身がすぐに飽きて、なし崩し的に普通に『桜の園』というようになった。


3

なぜ、どうして。たくさんのひとがそう言ってくれる。しかし、病を得た理由を求めても詮ないだけだろう。どこまでいっても理由は見つからないし、逆に、どこにでも理由は見つけられる。煙草だとか、建設現場で働いていたことだとか。だからといって、自分好みの理由をひとつ選びそれを抱え込んだまま死んでいくつもりはない。

生も贈与なら病も、そして死も贈与だ。僕はひとりでは抱えきれないほどの贈りものを家族から、友人から、芸術や文化から、自然から与えられ、ろくにお返しもできぬまま食い逃げ犯のようにこの世を去るのだ。なんという不均衡だろう。だが、その不均衡をこそ僕は愛している。この世は偏っているのだ。

もっと大きな大きな視点でみれば、きれいにつりあいがとれたかたちをしているのかもしれない。無限回振り続けることができるなら、サイコロの出目の確率はそれぞれ均等に六分の一だ。しかし僕たちにとってこの世は、そして生は有限なものだ。だからどんなに薄めていっても、均していっても、どこかで偏りが生じる。この有限性を肯定したい。



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