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直瀬の古城と城山まつり

勝山城

久万高原町直瀬仲組にあるこの城祉は、戦国時代、久万大除城の支城として城主鳥越左門が築いたとされる城で、山の登り口には、数基の古い墓があります。また頂上を含めて、3つの曲輪が現存していて、各曲輪は一坊、二坊、三坊と呼ばれ、それぞれ小さな祠が祀られています。

勝山城(三坊山)

鳥越左門は芸州の武士であったといわれ、天正二年笹ヶ峠合戦で討死したと古文書にはあります。城山の麓は「鳥越」と呼ばれていますが、おそらくここに鳥越左門の住居があったのではないかと思われます。

勝山城登り口の古墓

言い伝えによると、土佐(高知県)の長宗我部がこの地に攻め入り、鳥越左門と戦ったことがあるそうです。その時、土佐勢が城山に向かって弓を放った所を「射場」、弓のつるの切れた所を「つりきり」などと、今もその地名が残っており、かなり確かな伝説となっています。昭和49年(1972)、長宗我部氏の墓標と思われるものが、房代野から長宗我部金十郎(直瀬在住)によって発見されています。

文化財読本(上浮穴郡久万町教育委員会編)より

毎年、9月1日に仲組では「城山まつり」が行われます。地元で三坊山の名で呼ばれるこの山に神官を招き、山の鎮めと五穀豊穣を祈るのです。

一坊での祭祀

祭りは、まず組の男達の山登りから始まり、それぞれの坊で神官が祝詞を上げて祭祀が執り行われます。

三坊(本丸)の祠

続いて集落の川をはさんだ対岸の丘陵にある金比羅神社に移動して、同じように祭祀を行います。

金比羅神社祭祀

最後に、仲組の会堂に集まり、酒肴の準備をしていた女房達やお年寄りも加わての最後の祭祀が行われ、懇親会へと移っていきます。

仲組懇親会

明治の末期までは、山仕事に従事する者が山の神まつりとして、悪霊退散の不動明縁日にちなんで行っていましたが、その後、勝山城主鳥越左門の霊を三坊に祠を建ててまつり始めたとのことです。

筋野城

城祉は、直瀬房代野にあり、勝山城と同じく久万大除城の支城の1つに数えられています。曲輪は2つ確認できますが、勝山城に比べるとずっと小ぶりです。

筋野城

城の南方五百メートルのところには狼煙田と呼ばれる水田があり、その名の示す通り狼煙を上げる狼煙場の跡と言われてます。さらに狼煙田から数十メートル離れたところには旗田と呼ばれる水田があり、この名も敵が来たことを旗を立てて知らせた場所に由来すると言い伝えられています。

城主は小倉丹後守直政で、古文書によれば豊予海峡を渡って来たとのみ記載されており、その出自などについて詳細は不明です。小倉直政は小田土州境轆轤ヶ城の城主でしたが、天正二年(一五七四)に房代野に筋野城を構築したと言われています。

さて、ここで疑問に思うのは、なぜ大除城主大野直昌は、小田にいた小倉直政を呼び寄せ、土佐に隣接しているわけでもない直瀬に、もう1つの支城を作らせたのかということです。

古文書の記述が正しければ、小倉直政がやってきた時期に関係していると思われます。

これより前、大洲では大野直昌の弟で大洲菅田城主大野直之は、地蔵ヶ嶽城主宇都宮豊綱の女婿となり、宇都宮氏の家老職についていましたが、隙を突く形で城を乗っ取り城主におさまります。さらに密かに長宗我部元親と通じて、大洲近郊の城を攻略し勢力を拡大していました。

地蔵ヶ嶽城(大洲城)

これを知った湯築城主河野通直は、直之の兄直昌をともない、地蔵ヶ嶽城を攻め陥します。降伏した直之は兄直昌預りとなり、小田で蟄居を命ぜられますが、これをよしとせず妻子を連れ土佐へと出奔していたのです。

また直之の奥方と鳥越左門の奥方は姉妹であったとの伝承があります。これが事実であるとすれば、直之と鳥越の関係に疑念を抱いた直昌は、監視役として小倉直政を直瀬に送り込んだのではないかとの推測も成り立ちます。

その所為か、直瀬では同じ大除城の支城でありなが筋野城と勝山城との争いは絶えなかったとの言い伝えがあり、筋野城から放った矢が、仲組に落ち、そこがくぼんだところから、久保(くぼ)とか中久保などと呼ばれるようになったと、その争いが地名としても残されています。

小倉丹後守直政は、鳥越左門と同じく笹ヶ峠の合戦で討ち死にしています。墓は永子の旧会堂にあり、子孫は代々直瀬の庄屋を務めており、今でも直瀬には小倉の姓を名乗る人が多くいます。余談になりますが、筆者の父方の祖母も直瀬の小倉の出です。

小倉丹後直政の墓

龍ヶ岡城

直瀬下組の小学校の裏に『直瀬富士』と呼ばれるまさに富士山を想わせるきれいな形の山がありますが、これが龍ヶ岡城祉です。
城主は石丸兵庫守と言われています。

龍ヶ岡城

明治四三年(一九一○)、編さんの「川瀬村誌」によると、「石丸兵庫守も、このころ本部落東部に住せる。龍ヶ岡城を構え、小倉・大野の城主に匹敵せしも、ほとんど同時にこの所領を失いたりという。」とあります。

文化財読本(上浮穴郡久万町教育委員会編)より

ただ、「大野直昌城持四拾八名之次第」の中に龍ヶ岡城も石丸兵庫の名も無いことから、おそらく石丸兵庫は鳥越左門の家来で、龍ヶ岡城は勝山城の付城だったと思われます。
当地出身の筆者が子供の頃、勝山城と龍ヶ岡城は地下道でつながっていて戦争になると、連絡を取り合っていたんだと聞かされた思い出があります。勿論、子どもの与太話にすぎませんが‥。

石丸兵庫守の子孫といわれる下組の石丸家屋敷の東の田には、古い墓がありますが、これは石丸兵庫守の墓と言われています。

石丸兵庫守の墓

重藤の城

直瀬下組の中心地の川向かいに愛宕山と呼ばれる山があります。この愛宕山が重藤の城祉といわれています。
城主の名前は定かではありませんが、女城主であったと伝えられています。

重藤の城

かつて頂上には愛宕神社という小さな社殿があったそうで、年に一度、愛宕祭りが行われ、子どもずもうなども催されたようです。
平成になって、神社は頂上を少し下ったところに、地元有志によって再建されていますが、現在ではほとんど祭祀は行われていないようです。

愛宕神社

山の北斜面や畑の中には、風化した古い墓石がいくつとなくころがっております。畑の一角には墓石を積み重ねた塚もあり、そのかたわらには、小さな武者人形が過ぎ去った昔を語りかけるようにすわっています。くずれかけた墓標には、わずかに「寛文」の年号を読み取ることができます。寛文年間といえば、江戸中期より前のものであり、年代的にはかなり古い時代のものです。
いつの時代かはっきりしないが、この付近には寺院もあったと伝えられており、これが重藤の城となんらかの関係をもつものかも知れません。さらに上直瀬の氏神、五社神社の社伝によると、筋野城主・小倉丹後守がこの地に日負八幡宮を建てたと伝えられています。

文化財読本(上浮穴郡久万町教育委員会編)より

愛宕山は山というより丘陵といった感じですが、頂上からは直瀬盆地が一望できるほか、山の左右には房代野に登る古道があり、上畑野川を経由して久万へとぬける峠道へとつながっています。

こういった地理的背景から考えると、重藤の城は筋野城の付城として、見張り台の役割を果たしていたのではないかと思われます。

参考文献
文化財読本(上浮穴郡久万町教育委員会)
久万山物語(久万高原郷土会)
菅良太郎さんが記録したー直瀬の昔むかし(鐘ヶ江洋子)
久万山の民話(久万高原町教育委員会)
大洲市歴史探検(土居中照)



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