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人生の目的と終わり方/2022ver.

いつもとは趣向が違うかもしれませんが
大人にとっても子どもにとっても大切なことかと思い書き残すことにしました。
(これは私自身のための健忘録でもあります。とにかく長いのと内容が苦手な人は閉じてください)

どう生きてどう終わるか
考えたことはありますか?

看護師をする前から
人の”死”というものに割と近い環境で生きてきました

そのおかげ様で
どう在るか、何をするか、どう死ぬか
考える機会が多く、とても感謝しています

(とは言っても
近年の生活様式の中で区別されたりと
生身の人の”死”が見えにくくなり距離できてしまい
いつしか”死”は悪いもの、避けたいもの
のような風潮になってしまいましたが
本当はもっと当たり前でもっと身近なものでしたよね
インドの有名な川では今でも”生”と”死”が混在しているといいますね)

目的を全うできずに悔いを抱えて終わることや
大切な人たちに感謝を伝えられずに終わること
苦痛が続くことや望まない延命治療をされることは嫌ですが
数年前から死ぬこと自体はあまり怖いとは思わなくなりました
(まだ自分に子どもがいないというのもあるかもしれませんが)

小児科一筋で来ている私ですが
2022年の年始は
後期高齢者の方々の過ごされている環境に身を置いてみました

看護師をやってきておきながら
実は昔からお年寄りと関わらせていただく機会があまりなく
80代、90代、100代の生活があまり想像できなかったからです

もちろん、ほんの一部を垣間見させていただいたに過ぎないですが
とても良い経験になり
改めてどう生きるか、どう死ぬか
そのために今この時をどうするか
考えながら2022年をスタートしました

変化の早い時代なので
今のお年寄りの方が使えるサービスや選択肢はもちろん
私たちがその年代になる頃には
実際には大きく変わっているでしょう

色々な面から考えて私の体は80歳で生涯を終える予定ですが
(それ以降は同志や仲間に思いの先を継承してもらえるようにします)

こういう感じの暮らしや死に方は違うなというのは感じたので
その時に「選択できるようにする」(経済的な準備)
「今の体の機能を保つ」が今すること
これが現時点の解でした

”死”についてどんな記憶がありますか?

一番古い”死”の記憶は
幼稚園生の時に祖母が亡くなり
死んでしまうってなんだろう?
なんでみんな泣いているんだろう?(しかも大人が)
人の肉体の”死”というものがよくわからず
(冷たい、動かない…くらい)
母に「泣いたらいけないんだよ」と言ったことを鮮明に覚えています

小学生の頃に祖父が亡くなり
友達の親御さんが突然亡くなり
大好きなペットが亡くなり
大切な人が亡くなるのは悲しいことなのだと体感し
それまでの当たり前がいつでも当たり前でなくなると知る

中学生の頃に今寝たらもう戻って来られないな…を体感する

高校生の頃にもう一人の祖母が亡くなり
お見舞いはいいから勉強しなさいと会わせてもらえず最後も会えず
どうして振り切ってでも
もっと早く会いに行かなかったのだろうかと悔やみ

大学生の頃に従姉妹の旦那さんが突然亡くなり
若くて当たり前にそこにいた人が亡くなり
喪失感と「またね」が「またね」でなくなる恐怖を感じ

臨床に出てからのお子さんたちのお看取り
亡くなる直前まで全力で生きた子どもたちの姿
子どもを失う親の喪失
孫の喪失と娘の悲しみに直面する祖父母の姿
きょうだいの旅立ちをそれぞれの認知の段階で捉えるきょうだいの姿
関わってきた家族以外の人の様々なおもい
新たなスタートを切るご家族の姿

全て私の肥やしです

終わり方を考えてきたから見えてきたことがたくさんあります

今は健康で制限なく動ける状況なので
私は大切な人と自分の目的のために
残された人生の時間を使い
「よし、やり切った。いい人生だった。みんなありがとう。」
と言って死ぬと改めて決めました

子どもたちやご家族に関することをやっていくと決めた時
少し前にこれって承認欲求なのだろうか?
他人軸になっているのか?
と分からなかったけれど
そうしたらどう思われるかでなく
やりたいからやるだけ、でした😊

みなさんはどうですか?

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