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書物の転形期02 出自から形へ 1

出自としての「和本」

 書物の外形をあらわす「和装本」という言葉は、もちろん「洋装本」と対になる言葉で、それ以前は「和本」だった。「和本」という言葉も今では「和装本」と同様にその書物の形を意識して使われることが多い。しかし、「和本」は江戸時代の出板目録(注:江戸時代は板木を用いるためここでは「出板」と記す)では書物の形を指してはいなかった。書物の形の違いが強く意識されるようになるのは「洋装本」登場以後である。その意識の変化を当時の人々の個人的なレベルで確認することは今のところ難しい。ここでは広告の記述に限定して考えることにする。

 橋口侯之介は『江戸買物独案内』(1821)の本屋が、「中国製の「唐本」以外の書物はみな「和本」として広告を出している」(『和本入門』、平凡社、2005。のち平凡社ライブラリー、2011)ことを指摘し、「江戸時代から日本でできた本の総称として実際に「和本」と呼んでいた」としている。事実、江戸期から明治初期板本の巻末広告および出板目録の集成である『雪有香』(朝倉治彦監修『近世出版広告集成』全六巻、ゆまに書房、1983)には部立ての名称として「和書」があるが、これは書物の形ではなく「漢書」「唐書」に対する「和書」であり、出自を示していた。個別の書目に形として「和本」と記載されることはなかった。

無題

※『江戸買物独案内』国会図書館蔵

 一方、個別の書目に記されているのは「大本」「中本」「小本」「半紙本」「横本」といった書型である。江戸時代の書物のジャンルや内容は書型によって分けられていたから、広告のこのような記述は理解できる。それ以外の記載は「懐中本」「袖珍本」「薄葉摺」「両面摺」といった、一般的な書物とは異なる用途や要素がある場合であり、書型と併記される場合もある。広告の個別書目に記載される書型その他は、書物の商品としての特徴を示したものだった。

 「唐書」「唐本」の方は出自としてではなく、外形として個別の書目に記載される場合もある。唐本は和本とは異なる書型だからである。書型は強固な書物の体系としてあり、それ以外の外形の記述は補足的なものにとどまった。したがって「和本」は出板目録には書物の形を指す名称としてはあらわれない。すべてが「和本」の形であった江戸時代には、それは日本で作られた書物の総称ではあっても、書物を特徴づけるものではなかったのである。


「西洋仕立」「西洋綴」「西洋形」

 しかし、明治期に洋装本が登場すると目録や広告の記述に変化が現れる。文部省の『壬申十月 准刻書目』(1872)に「和独纂成辞林 洋様摸製(中略)一冊」とあり、「和本」とは異なる外形についての記載がなされている。ただしこれはかなり早い例で、目録記述としては例外的なものである。

准刻書目

※『壬申十月 准刻書目』国会図書館蔵

 洋装本の外形の記述を本格的に始めたのは出版広告だった。国文学研究資料館「明治期出版広告データベース」を使って当時の広告を探ると、洋装本の外形記述は次の例が最も早い。

医療大成 文部省官板
右ハタンネル氏ノ原著ニシテ済衆ノ君子待玉フコト久シ今般薬剤篇出来私店ニテモ売弘仕候西洋仕立ニテ簡便ナル美本ナリ治療篇ハ追々発兌ニ相成ル由此段公告仕候
 十一月
浅草茅町二丁目 須原屋伊八
馬喰町二丁目   島村利助
『東京日日新聞』1873.12.17

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※『医療大成』、文部省学務局、1873、牧治三郎旧蔵、架蔵本

 官公庁の出版物の中から洋式製本の書物が現れ始めるのが1872~3年である。それまでとは異なる新しい書物の形は広告上に特筆すべき商品価値があった。その際、洋装本の外形を指す言葉として広告に早くから使われた言葉が「西洋仕立」であった。

中村敬宇先生訳述
西国立志編 一名自助論 全部再版 十月二十六日板権免許
右は今般先生自ら補正して活字版にて全部一冊に纏め西洋仕立に致し来る十二月中には必らず発売すべし然るに此頃或る書肆にて旧本の儘を活字版西洋仕立にて発売せんとする者ある事を伝聞せり先生の補正せらるゝ本にはスマイス第一板の序あり是旧本に無きところなり江湖の君子請ふ正本発行の日を待て購求せらるべし
印刷所 秀英社
売捌書林 稲田佐兵衛
同 山中市兵衛
同 丸屋善七
同 小林新兵衛
同 青山清吉
同 高橋金十郎
『朝野新聞』1876.11.5) 

 これは後に『改正/西国立志編』として出版される洋装合本版の広告である。木版の和本分冊だった『西国立志編』を、活字を使用することによって一冊にまとめて「西洋仕立」にするとあり、「西洋仕立」は明らかに書物の製本と装幀を指している。そもそも「仕立」という言葉は、書物の印刷・製本・装幀といった造本全般を指す。しかし、ここでは印刷と製本・装幀は区別されている。以後の広告も印刷とそれ以外の造本要素とは切り分けられていた。さらに「西洋仕立」は書型としばしば併記された。例えば『自由交易穴探』『東京日日新聞』1877.7.6)の広告は「西洋仕立中本」として「西洋仕立」と書型を区別している。広告上の「西洋仕立」という記述は書型とは異なる次元の外形をはっきりと示唆している。

 『改正/西国立志編』の広告が出た1876年は官公庁の御用書肆が一斉に洋装本を刊行し始めた年であり、この年には洋装本をあらわす様々な言葉が広告上で使われるようになる。

青木輔清纂輯  西洋仕立
校刻小字典 定価六十銭
増補漢語字彙 定価五十銭
雅俗節用集 定価六十銭
右ハ先般敝舗ニ於テ既ニ発売シ其広益ノ如キモ普ク海内諸彦ノ知ル処ナリ今亦紙板ヲ精選シ近年流行ノ西洋綴ニ致シ洋服或ハ旅行ノ携帯等至極軽便ナル極小珍本ヲ専売ス乞フ天下ノ看客近方ノ書房ニ就テ購求アランコトヲ伏テ希フ者ハ東京本石町ノ一商肆江島万笈閣ノ主人ナリ
『東京日日新聞』1876.8.18

 この広告では、「西洋仕立」と「西洋綴」が洋装本の形を指す言葉として使われている。この広告の「綴」は、製本Bindingの意味として使われているとも読める。だが当時の広告を見ると、「西洋仕立」も「西洋綴」も、書物の構成要素である装幀や製本を切り分けて示した言葉かどうか判然としない場合の方が多い。少なくとも広告レベルでは、西洋から来た新しい造本(印刷を除く)の呼び名として見た方が妥当であろう。

国法汎論 元文部省御蔵版
元価一円二十五銭
右国法汎論各県諸学校ノ注文ヲ請印書局ニ於テ既ニ製本ニ成リタル民法憲法ノ体裁ニナラヒ元書大本十一冊ヲ活版西洋形本一冊ニツヾメ軽便ヲ旨トセシ書誂ヲ除九百五十部ヲ元価一円二十五銭ヲ以テ一月二十八日ヨリ発兌仕候問御求メヲ相願(中略)
同月二十日発売 本石町四丁目四番地
岩本忠蔵
『東京日日新聞』1876.1.27

 この広告は「西洋形」である。もと和本分冊で出版された『国法汎論』を洋装本一冊に合本した同書の翻刻の広告である。広告では政府の印書局で作った活版洋紙両面刷りの洋装本『仏蘭西法律書』(1875)の製本にならったとしている。この言葉などは、洋装本の形を丸ごととらえた呼び名といってよいだろう。

図3

※『仏蘭西法律書』上巻、印書局、1875、架蔵本

 そして内務省図書局が1878年1月に発行した『出版書目月報』第1号には、すべての洋装本に「西洋形」という記載がなされた。和本とは異なる製本様式を特に記したのである。目録上での書物のまとまった外形記述はこの「西洋形」によってもたらされた。一方「和本」は相変わらず一般的な書物の形として認識されており、外形をあらわす名称としては記されていない
 この目録でもう一つ注目すべきは、すべての本に書型が記載されているということである。和本の書型は基本的に従来の書型に従っている一方、洋装本は「中本」「小本」という二種類の書型が記されている。これはそれぞれ後の菊判・四六判に相当する。ちなみに和本の書型に置き換えると、菊判は「半紙本」、四六判は「中本」である。この目録では書型の名称と書物のサイズの組み合わせが和本と洋装本の間で異なっており、それぞれの書型の基準が並立している。当時の洋装本は輸入洋紙を使用していたため、その大きさの規格にしたがって書物を製作する。それが和本とは異なる基準を採用した理由ではないか。また、洋装本の中本・小本ともに法律書が大半を占めており、江戸時代の和本の書型と書物の「格」の対応とは異なっている。洋装本に関しては、すでに明治初期の段階で書物の内容と書型の伝統的な対応は見られず、洋装本の目録記述における中本・小本は、見かけのサイズ以上の意味はない。民間の目録もこれにならった。岡部養造編『明治出版書籍索引』(1878)には菊判の洋装本に「西洋形 中」という記載がなされている。

 そして、「西洋」から「西」の字を省いた「洋形」「洋綴」そして「洋本」といった言葉があらわれ、その対として書物の形をあらわす名称としての「和本」が登場する。(この章つづく) 

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