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回想 第一章 36

第36回
 それはある大雨の降り続いた日だった。普段日中の強い日差しで硬くかためられた地面が、執拗な雨のせいで溶けてしまうくらい降り続いた暗い日だった。駅長は大きな葉を重ねた下に横たわり、白いもやのように地面にはじける雨粒を眺めながら雨をしのいでいた。少年はずぶ濡れになりながらいつものように前を通り過ぎようとしたが、その日は無言で立ち止まり、横たわる駅長を見つけた。そしてまだかごにたくさん残っているふやけたパンをひとつ駅長に差し出した。駅長がそれを無言で受け取ると、少年はゆっくりそのまま通り過ぎた。それから少年は毎日パンをひとつ駅長のために残しておいてくれるようになった。毎夕、少年は全速力で駅長の前まで来てパンを渡すと、また大急ぎでばたばたと自転車をこいで去っていった。その間、お互いに言葉を交わすことはなかった。それが習慣になり、少年がパンを運んでくることが当然の仕事のように思われてきたとき、駅長は初めて少年に声をかけた。駅長は、その日のパンをひとつ渡して立ち去ろうとする少年を呼び止め、これからは新鮮なパンを朝のうちに渡すように、と頼んだ。少年は快くうなずいた。そしてそれからは毎朝駅長の前を通り過ぎるときに、まだ香ばしい匂いを残しているパンをひとつ分け与えるようになった。そしてしばらくすると、駅長はまた少年を呼び止めた。駅長は少年に、これからは朝と夕方にパンを置いていくように、と頼んだ。少年は少し考えていたが、また快く承知した。そして駅長は一日二つのパンを少年からもらうようになった。少年は毎日、朝いっぱいなったかごからパンをひとつ選り出して与え、帰りにまたひとつ残してきたパンを渡した。以後駅長は、それ以上のパンを少年に要求することはなかった。しかしいちどだけ駅長は、別の味のするパンは持っていないのか少年に訊ねてみたことがあったが、その時少年はこれしかないと申し訳なさそうに返答した。
 大雨もしのげる大きな葉の下で、日中の暑さも忘れるくらい涼やかな風にあおられて寝ている駅長を、ある晩揺り起こすものがあった。起きるとそこには少年が立っていた。その横にはさらに小さな少年も立っていた。小さい方の少年は、少年の手を握っていた。駅長が黙って二人を眺めていると、少年は駅長に、住む家がなくなったので、ここでいっしょに住ませてくれ、と頼んだ。駅長は少し考え、すぐ横にある小さな空き地を指して、そこになら住んでもいいと伝えた。そしてその晩をさかいに、二人は駅長と暮らすようになった。駅長は、雨露をしのげるように少年二人にも大きな葉で屋根をこしらえてやった。少年二人は毎晩そこで重なり合うように眠った。少年は毎朝まだ陽が昇らないうちに出かけていき、どこからかかごいっぱいにパンを仕入れてくると、駅長と小さな少年にパンをひとつづつ与え出勤していった。そして夕方には、少年は二人にパンを残して帰ってき、三人で向かい合ってパンを食べた。毎朝少年が去っていった後、駅長は小さな少年用に与えられたパンを取り上げ、半分だけ小さな少年に与えた。小さな少年は何も言わず、与えられた分だけ食べるとそのまま日が暮れるまで帰ってこなかった。誰もこの小さな少年がどこに行っているのか知らなかったし、また訊ねなかった。そして池も干上がるような暑い日中、少年がパンを持って帰ってくるまで駅長は葉の下から動かずに過ごした。少年が帰ってくる頃、小さな少年も決まって体中すすだらけになって帰ってきた。

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