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回想 第五章 214

第214回
 駅長は、何が良かったのか、上手くは説明できない、と返事した。
 「でも確かに良かったのですね?」
 駅長は、うなずいた。
 「そうですか。それは止めた甲斐もあった、というものです。」影はうれしそうに言った。「それではそろそろ横になりますか?」
駅長は同意して横になろうとしたが、少し思案してから、できればこの濡れた服を着替えさせてほしい、と要求した。
 「もちろんです。着替え終わるまで待ちましょう。」影は快く承知した。
 駅長は濡れた服を脱ごうとしたが、もう両腕にあまり力はなく、濡れた生地が肌に密着して服を上手く脱ぐ事ができなかった。駅長は何度か脱ごうと試みた後、脱力したように寝台に腰をかけ、申し訳ないけれど、脱衣に手をかしてほしい、と影に頼んだ。
 「喜んでご協力しましょう。」影が応じた。
 影は片手を伸ばすと、駅長の服のすそをつまみ、そのまま引き上げて人形のように力なく座る駅長を脱がせにかかった。影は器用に脱がせると、今度はどこからか乾いた服を取り出して、それを駅長に着せにかかった。着替え終えると、駅長は何度も影にお礼を言った。
 「ではもう横になってください。」影が言った。
 駅長は、おとなしくうなづいて寝台に寝ころがった。
 「横になったら、目をつむってください。」
 駅長は、目を閉じようとしたが、またむっくりと起き上がった。
 「どうしたのです?」影が落ち着いた声で尋ねた。「まさかこわくなったんじゃないですよね?」
 駅長は、そうではない、と答えた。
 「ではどうしたんです?」
 駅長は、胸を指しながら、この高揚がどうにもおさまらない。なんとかこの感情を書き残しておきたいのだが、と申し訳なさそうに言った。
 「もちろんどうぞ。」影が返事した。「でもあんまり時間をとらないようにお願いします。」
 駅長は、時間はとらせない、と約束した。そしてポケットの中から、昨夜自分が書いた遺書を取り出した。ここにもう少し書き足すだけでよいから、と駅長が言った。
 「そうですか。ではもう少しだけ待ちましょうか。」影が言った。
 駅長は、自分の遺書をひろげて鉛筆を持ち、しばらくのあいだ何をどう書いたらよいか思案した。そして駅長は影に向かって、自分がこの数日の間に充実した時間を過ごせると見越した上で自分の自殺を止めたのか、と尋ねた。
 「そういう予感はありましたね。でも具体的にどういう結果になるかは知りませんでしたけど。」
 駅長は、影の返事を聞かずに、ひろげた遺書に鉛筆をはしらせた。
 短い文を書き終えると、しばらく自分の書いた文字をじっくりとながめ、満足したようすで鉛筆と遺書をテーブルの上に置き、まただまって寝台に横になった。
 「もうよろしいですか?」影が尋ねた。
 駅長は、だまってうなずくと、目を閉じた。
 その上に影は片手をかざすと、駅長は少し苦しそうに眉をしかめた。しばらくすると駅長の呼吸が止まった。
 外の雨はすでに止んでいた。建物の中は人の気配がないくらいに静かだった。
 テーブルの上に残された遺書には、次の文が足されてあった。
 『すべての人を愛しています。』


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