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【短編小説】こんな夜のスープ

 深夜、私は背を向けて眠る夫に気づかれないよう、そっと布団から抜け出して、台所へ向かった。シンクの上の電灯だけをつけて、ヤカンに水を入れて火にかけた。ジジッとコンロに火がつく音がして、ヤカンが小さくシュウシュウと鳴り始め、それを見ながら、私はぼうっと立っていた。
 つい数時間前、夫と酷い喧嘩をした。もう結婚して十年になるのに、どうしてこんな喧嘩をしてしまうんだろう。何度繰り返せば懲りるのだろう。悲しい擦れ違いの後にやってくる静かな夜が嫌いだった。時計の秒針の音も、隣で私に背を向けて眠る夫の姿も、それを悲しむ自分も、全部全部嫌いだった。
 神経が昂って落ち着かない。何か、温かいものでも飲んで気を落ち着かせようと思った。
 ヤカンがシューシューと大きく鳴き出して、私は火を止めて食器棚からマグカップを持ってきた。それからスティックタイプのコーヒーや、紅茶や緑茶のティーバッグなんかをストックしてあるカゴを漁った。とにかく温かいものが飲みたかった。さらりとしたものよりは、とろりとしたもの。空っぽのお腹に溜まって、温めてくれるような、そんなもの。
 そうして探していると、カゴの底の方、スティックコーヒーやティーバッグの小箱に埋もれて、コーンスープの袋をひとつ見付けた。いつか買って、適当に放り込んでおいたものだろう。念のため賞味期限を確認して、大丈夫な事を確かめてから、封を切って中身をマグカップに入れた。マグカップに溜まった薄黄色の粉にヤカンのお湯を注ぎ入れると、小さな泡がいくつも沸きだってくるくると回って、やがてひとつの大きな泡にまとまって、水面の端のほうに落ち着いた。
 スープは、クルトンも粒のコーンも入っていない、とてもシンプルなものだった。私は立ったままで、マグカップを手に取り、スプーンでかき混ぜて、掬って、飲んだ。
 どろりと重く流れ込んでくるスープは、口から喉へ、胃へ、もっともっと、私の底の底へ落ちていった。熱い。舌を火傷してしまいそうなほど、ドロドロに溶けて重たいコーンクリーム。息を吹きかけて冷ましているのに、どうしてこんなに、嫌になるほど熱いのだろう。腹立たしいほど飲みにくいのだろう。お腹の底に溜まっていくのは、温かさではなく、熱くて重たい何かだった。
 私はどうしようもなく悲しくなって、それから火の吹くような怒りを覚えた。
 私はスプーンを握りしめ、スープに突き刺した。黄色い液体を切り刻んで、掘り起こして、大きく開けた口に押し込んだ。コーンもミルクも、化学調味料も何もかも、全てが溶けきって何が何だか分からなくなってしまった液体を、何度も何度も噛みしめた。
 私はスープを貪り、最後の一滴まで舌で舐めとった。全て飲み干してしまいたかった。嫌になるほど苦しんで、苦しみきってしまいたかった。苦しませて欲しかった。全部全部、ちゃんと消化してしまいたかった。さっきだって、今までだって。心の底では、ずっとそう思っていた。
 
 空っぽのカップとスプーンを水が張った桶に落とし、電灯を消し、寝室へ戻った。夫に背を向けて布団に潜り込むと、夫が腕を伸ばしてきて、私を抱きしめた。
 私を全身で握りしめながら、夫は何も言わなかった。私も、ただただ抱かれるままだった。暑苦しいとか、腹立たしいとか、そういう感情は一切なかった。ただ、お腹の底が温かくて、満たされていた。
 夫の熱が体の隅々にまで届き、互いの体が溶け合うように感じられた。ただ、布団からはみ出た私のつま先は冷たくて、それが唯一、私と夫を区別できる部分のように思われた。
 きっとこれからの静かな夜にも、私はああやってスープを飲むだろうと、ぼうっとした頭で思った。
 スープと一緒に飲み込んだ空気が、小さいげっぷになって私の口から抜けていった。夫の熱と私の冷たいつま先に、私はようやく眠気を感じて、そして、瞼がぱたりと落ちた。


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