この世は、皆、同じぐらい悪い話。

生きることで、

法律、モラル、常識、皆の空気。


守らないといけないとされてることは、

たくさんある。


生きることが、

1人、道行く車の運転だとしよう。


それにも、法律で定められたルールがある。


法定速度や信号、標識なんかを守らないといけない。


でも、この日本の普通では、

法定速度を守る人は、そんなにいないのが、

普通で、プラス15㌔前後が、普通の空気になる。


なのに、信号機と看板は守る。

それは、現実的に即した皆の意見が、

現実に反映されてるから。


でも、

その普通の速度が、じゃあ、正しいか?

いや、正しくはないとされてる。


じゃあ、

法定速度を守るのが、正しいか?

いや、それは人の迷惑になるから、正しくはないし、


じゃあ、

何もかも、ぶっ飛ばしていくのが、

正しいか?

それは、自分の意志に基づいてはいるけれど、

もちろん、正しくはない。


だから、

普通の人も悪いし、

何かを守るのが、正しいのに守られてるのも、

悪いし、

自分だけの意思に従うのも、悪い。


生きる事は、

皆、正しくはない。


どんな生き方をしたとしても、

皆、同じぐらい悪い。


つまり、

カテゴリー分けされた人間の本質は、

皆、悪い。


人は、生まれながら、自分がどこかに属している。


そして、

問題が起こるのは、

どこかの別のカテゴリーに属した人間に、

それは悪いんじゃないですか?

と、言われた時に、

ああ~、自分は悪い人間だと思った時だ。


だけれども、

それを言う方も悪いし、

その他のジャンルのカテゴリーから見たら、

その人も悪いのだ。


だけれども、皆が本質的に悪いなら、

そもそも、この世界に生きる事は、

イノセント。無罪なのだ。


誰もが悪いなら、

それが平等なのだから、

誰も、罪には問えない。


問題は、あなたが誰かの言葉で、

あなたの属してるカテゴリーにいる自分を、

尊重できないことにある。


大丈夫。


あなたも悪いし、

誰かさんも悪いのだ。

だから、別に、それは問題にしなくたっていい。


だから、ちゃんと自分が、

どんな人間の魂に属する人間か?

を、認めて、受け入れてしまって、

ちゃん自分を生きよう。


誰に何を言われても、

気にすることなんかないし、

それが誰かの目で見て、

普通じゃなくてもいいから。


違うカテゴリー同士の人が、

違うからって、お互いを嫌い合っても、

意味なんかない。


僕は、それは不毛だと思う。


あなたは、あなたのままでいい。

というか、

それしかできないし、

それをやらなくちゃいけない。


だから、

あなたは、あなたを生きてほしい。


誰かだけに、罪があるわけでもなく、

罪はない事に、気づければ、

自分をちゃんと生きれば、

問題化することなんか、なかったんだよ。


おわり。



生き延びるために、 自分の生きる力にするために、 遣わせていただきます。