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劇場祭ふりかえり①

参加者=額田大志、福井裕孝、山下恵実
    吉祥寺シアター制作(大川、吉田)

「観客との関係性」をどう設定するのか

大川:閉会後、お三方にはそれぞれ参加アーティストの立場から振り返りの文章をいただきました。ご提出いただいた振り返りを読んで、それぞれお互いの感想や、また、作品について、劇場祭全体についての意見や要望など改めてお話いただければと思います。
 まずは福井さん、お二人の文章を読んでいかがでしたか。

福井:お二人の作品についてはこれまでSlack上で断片的にしか追えていなかったので、こういう形で知ることができてよかったです。読み応えがありました。

大川:お二人に聞いてみたいことなどありますか。

福井:個別の作品の内容についてというより、参加するにあたって観客との関係をどう考えていたのか聞いてみたいです。山下さんと額田さんがパフォーマンスのライブ配信だったのに対して、僕と綾門さんは劇場の内側でもう少し閉じたことをやろうとしていて、まずは大きくそういう違いがあったと思うんですけど、山下さんは先行するオンライン作品とは違うことをやろうということも書いてらっしゃったので、実際やられてどうだったのかもお聞きしたいです。

山下:からっぽの劇場祭に参加する前からオンライン演劇は既に沢山配信されていましたが、正直自分ではあまり見る気になれなかったり、見てもあまり集中力が続かない作品が多かったんですけど、なんでだろうっていう理由を考えたときに、自分は作品と全く関係ないところにいるという感覚が強いというか・・・・・・空間を共有できなくなると本当にただ自分に関係ないものとして傍観できてしまうので、自分が見る際に集中力を保ち続けられなくて。
 そうじゃなくて、空間や場所を共有していなくても観客が作品に関わっていける、作品の一部であるという感覚をもたせることはできないかと思って、今回はお客さんから言葉を集めて作る、ということをやりました。
 実際やってみて、意図していた通りにできたとは言えないと思っていて、理想を言えば言葉をもらって作品化して、そのあとのワンステップのやりとりができる仕組みがつくれたらよかったな、と思っています。

福井:なるほど、ありがとうございます。当事者性みたいな話は額田さんも触れられてましたよね。

額田:当事者性っていうのはその場にいる人?

福井:観客というか、作品に立ち会う人のことですかね。今回全体を通して観客の位置付けが漠然としていたのが特に気になっていて。綾門さんからお話をいただいたときは確か「無観客演劇祭」ってタイトルでしたよね。最初はちょっと直球すぎて腰が引けたけど、劇場が銘打つ企画として強気で良いタイトルだなと思って。ただ、無観客っていっても(ここに)観客が「いない」のか、観客が「ない」のかで意味は変わってくると思うんです。多分「いない」の方だったと思うんですけど、自分は観客が「ない」方に関心があったので、参加するなら何をやるにしても、従来の劇場における観客像は想定しないで考えようと思いました。
 観客との関係で言うと、額田さんは「自分のために演奏する」という話をされていて、そのプラスアルファの当事者性、の部分が山下さんとも通じる部分があるのかなと聞いてて思ったんですけど。

額田:通じる部分があるかもしれませんね。劇場に来れない人、来ない人に対してどうやって自分たちのやってることを伝えるか、というのはこれまでも常に問題になっていたと思うんですけど。
 今のコロナの状況になったときに、劇場に来たくても来れない人だとか、そもそも演劇に興味がなかったけど配信がきっかけで見始めた人とか、多分いろんな形で、普段演劇に接していた人が接することができなくなったり、接していなかった人が接することになったり、っていういろいろな変化があると思うんですけど、なかなかそれがうまくいっているか、ということは疑問で。
 自分の作品では二つ取り組んだことがあって、ひとつはおそらく福井さんの言う当事者性に近いんですけど、「自分がダイレクトに作品がつながっている実感」が生まれるといいかなと思いました。例えば「釘を打つ」だけの楽曲があったとき、大工さんや舞台美術家の方が演奏したら、プロの演奏家と同じか、それ以上の音楽が生まれるかもしれない。そのように、個人の持っているバックグラウンドに強く接続できるような状態が作れたらいいと思って。
 もう一つは見せ方の点での広げ方で、コンサートを配信するって決まったときに、必ずお客さんを入れたかったんですね。舞台作品として作っている以上、あくまで舞台上をみせるのが一番いいんじゃないかな、というのはある程度共通認識があると思うんですけど、僕の場合の配信は、むしろそこにいるお客さんごと見せていく方向になればいいかなと思っていたんですね。配信をしている劇場の中にお客さんも映っていることで、配信を見ている人たちは舞台上の演者と同時に現場のお客さんを見ているみたいな。演者のパフォーマンスだけじゃなくて劇場の空気感みたいなものを感じて欲しい。細かいところは伝わらないかも知れないけど、どういうことをやっているかという現場の空気を感じて欲しい、という試みがありました。

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「開いていくこと」の難しさ

山下:額田さんへの質問なんですが、この前の振り返りの文章で、額田さんも私も、それぞれ自分の作品についてどういうことを考えていたか、ということは結構書いていたと思うんですけど、劇場祭全体としてどういうことを感じたか、ということはありますか。

額田:テクニカルなことで言うと、やっていることを外部に伝えるのが難しいな、と感じる現場でしたね。コロナの状況下の、割と初期の段階でこういうチャレンジが出来たのはすごい良かったと思っている一方で、例えば渡邊織音さんの空間設計とか、面白かったんですけどなかなか外部に伝わっていなかったなという印象があって。
 そういうことって一回作品を見たりとか、劇場に来たら分かったりすると思っているんですけど、お客さんがいないからそれが伝わらない、っていうことをどうやって解決したらいいのかな、と思いました。
 これまで、お客さんが来ることで、SNSに限らず口コミとかで興味を持ってもらうことって本当はかなり多かったんだな、ということを感じました。作品の外側の話ですが。

福井:今回のプログラムと並行して、THEATRE E9 KYOTOの箱馬をお借りしてやったこともそうですけど、何か発信するとなると結局インターネットに頼ることになっちゃうやるせなさみたいなものは感じていました。外に対して開いていく姿勢は大事ですけど、より多くの人に訴求していく問いかけていくというより、何に対してどういう風に開いていくか、完全に閉じることも射程に入れながら開き方を考えるのが大事だと思って。企画立ち上げの段階から全体でもっとそういう議論を交わせたらよかったんじゃないかと思っています。
 自分の場合、山での作業風景や劇場で山が保管されている様子は基本見れない(立ち会えない)ことを前提にしていたので、唯一お客さんになりうるとしたらその辺にいる人、身内を除けば、一日三回演出で搬入口を開けて換気している間に外を通っている人だけ。扉が開いている間だけ見る・見られる関係が生まれる。多分外の人には作品として認識されないので所詮理屈というか、こちらの一方的な働きかけに過ぎないんですけど、この劇場祭ではそういうことをもっと大切にしたかったです。

山下:私も似たようなことを感じていて。告知の情報のわかりやすさとはまた別の方向で、どう情報を出していくかとか、どう見せていくか、みたいなことを慎重にやらないといけないな、と思いました。アーティスト個人の企画としても、劇場祭全体としても、それをどうオンライン上に見せていくか、ということをもう少し全体として共有できればよかったな、ということを考えていました。

額田:ちょっと観点が変わりますけど、その「届かなさ」みたいなことはもはや受け入れないといけない部分があると思っていて。おそらく二、三年はこの状況が続くと思うんですけど・・・・・・だからこそ、いま福井さんがおっしゃったみたいに、「誰かに届ける」っていうのを、人数では無くて、すごくピンポイントの人にだけ届ける、というのはすごくいいなと思っています。
 あとは、もはや届ける、ということではなく、五年後や十年後の自分のクリエーションに続いていくようなことを今の時期にやっていく必要があると思っていて。今回の自分のコンサートも、お客さんは少ないけどとりあえずウェブ上に楽譜はあるからいつでも公演できるよ、みたいな・・・・・・自分の未来のお客さん、未来のクリエーションのための創作をこの劇場祭でやっていく、という目的を途中から考えていました。
 お客さんの数とか広報も勿論大事なんですけど、かなり状況的に限界がある中で、そこをどう頑張ればいいのかっていうのは分からない部分もありました。

福井:そういう意味では「からっぽの劇場祭」というタイトルが、本当にそれでよかったのかって感じはします。

吉田:タイトルによって観客側の受け取り方を規定してしまった、という点は多分にあったと思います。状況的に二転三転した部分も多かったので難しいですが、作品毎の見せ方をもう少し丁寧に打ち出すことができればよかったですね。

大川:「からっぽの劇場祭」というタイトル自体が、最初の企画名である「無観客演劇祭」からふわっと変えてしまったところもあって、コロナの状況下、お客さんを積極的に呼べないという状況にちょっととらわれすぎたのかな、という気がしています。

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「小さな一歩」を見つめて積み重ねていくこと

福井:会期中の劇場の雰囲気、お客さんが入っているときとかはどんな感じだったんですか。

額田:有観客の時は、本当に劇場が開いているような感覚がありました。そのとき吉祥寺シアターがお客さんを入れること自体が長く止まっていた時期でもあったので、劇場の雰囲気としてはとてもポジティブに動いていたような気がします。もちろん、お客さんもコロナの状況下なので、すごく笑ったりとかはしにくいんでですけど、とても集中して観てくれていて。劇場が本来の形に戻った、といえばそれまでなんですけど、あの時期にそういう成功例を作れたという意味で、個人的には非常にいい取り組みができたような気がしています。
 劇場にお客さんが入る状態って、自分たち以外の人がいてある種「街」っぽい雰囲気かなって思っていて。今回は、抽象的な言い方ですが「村」っぽいというか。何かにあったときに、自分たちは頑張っているんですけど、狭い社会の中で外側にうまく広がっていかないというか・・・・・・そういう焦りを感じつつ目の前のやらないといけないことに追われていく、みたいな感じがあったように思います。
 ただ、一つ付け加えるなら、別にそれは悪い空気では全くなかったと思っていて、毎日毎日大変なことが起きる中で、みんなが作品をつくる上でどうにか乗り越えていこう、みたいなモチベーションは高く持続できて、最後にお客さんを入れた上で公演までできましたし。
 予想外のことは起きていくし、それが外に伝わっているのか分からないという不安もありつつ、作品を作っていくことで少しずつ取り組み全体が進んでいくような感じはあったと思います。

福井:やっぱり会期中劇場にいられなかったのは惜しかったですね。お客さんはお客さんで楽しんで帰られたみたいでよかったです。現場にいなかった身としては、Twitterにアップされる内容から現場の状況を想像するしかなかったんですけど、やっぱり実際に現場で起こっていることとのギャップは気になりました。
 会期終盤に公開された屋上でトマトを収穫している映像にしても、自分は参加者で背景を知ってるから、思った以上にこじんまりとしてて良いなとか思って見てましたけど、現場の雰囲気が十分に伝わらないオンライン環境下で、これまでの経緯を知らない人の目にはどう映るのかみたいなことは考えました。インターネットを介して発表するなら、単に作品を届けるためのメディアやツールっていう認識を超えて、もっと別の想像力をはたらかせる必要があると思いました。

額田:反省点として敢えて言うと、「やりたいこと」と「できること」のバランスが難しかったですね。
 トマトの収穫も、最初なんでやるのか疑問だったんですけど、やってみたらすごく楽しくて、演奏もしたし、映像をみて改めて良かったなと思えた、みたいなことがあって。本当はそういう小規模なことでもよかったのかな、という気がします。
 最初に求めていたビジョンがすごく大きくて、大きいことは悪いことでは無いんですけど・・・・・・コロナの状況、演劇が置かれている状況に対して、私たちは何か強くカウンターを打たないと行けない、みたいなモチベーションで始まった企画だったと思うんですけど、実際にやってみると、畑とかちょっとした出来事、お客さんが一人だけいること、だったり、そういう小さいことが個人的にはいいなと思えてきて。
 もしかしたら「いまできること」っていうのはそういう小さいことだったのかなと思います。どうしても状況的に「何かをやらないといけない」というモチベーションが強いんですけど、そういう小さい物事が集まっていくような催し、の方向も、あり得たのかも知れないと思います。

福井:それは思います。槍玉に挙げるつもりはないんですけど、ある意味「奈落暮らし」が今回象徴的だったと思っていて。内容を聞いたときから個人的にいろいろ思うところはあったんですけど、実際始まったらうまくいかなくなって、結局地上に出ることになる。それで終わるのかと思ったら、この日誌は本当か嘘かみたいな別のシステムが持ち込まれて、プログラムとしては延命するわけですよね。今できることを前向きに考えようというのは大事なことのように思えるけど、その前にできなかったことの「できなささ」と向き合うことの方がもっと大事というか。今回自分のプログラムも事前の検証不足でうまくいかなくなって、劇場と綾門さんから色々ご提案もいただきましたけど、このタイミングで立ち止まらずに何かをやろうとすることにこだわる理由はよくわかりませんでした。今回吉祥寺シアター側も自由にやってくださいって、それぞれがやろうとしていることを尊重してバックアップしようとしてくれていたと思うので、あとはお互いにもう少し作品づくりと丁寧に向き合えていたら、わからないですけど、最後のこじんまりとした収穫祭にもうまく繋がったんじゃないかと思います。それは僕個人としても反省しています。

吉田:収穫祭だったり、奈落暮らしだったり、という企画は最初は二次的なコンテンツとして準備していました。会期全体が進んでいく中で、自分たちで広げた風呂敷で首が絞まっていく、ような状況にもなってしまったんですけれど、最終的には空間設計や映像も含め、いろいろ準備していた要素が有機的に繋がっていく感じがあって、それは今回の限られた規模感だからこそだったと思います。

大川:広げた風呂敷の精査が足りなかったな、という反省が大きいです。1つ1つのコンテンツの位置づけや関係性の精査に加えて、情報の出し方も主催者として見通しが甘かったことが、共通で抱いている「開き切れなさ」や「繋がらなさ」に帰結したのかなと感じています。

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(9/16 福井・額田・山下・吉田・大川の5名で収録)

ふりかえり②はこちらから


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