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第1話 30年前の不機嫌な大学生

この春、娘が大学生になった。コロナ騒ぎで、一度も大学に通えないままゴールデンウィークも終わった娘を見て、可哀相にと思う。大学一年の春には、濃密でゆったりとした、それでいてあらゆる興奮に満ちた賑やかしい時間が流れている。それは、他のどんな年の春とも違う、特別な時間だからだ。

約三十年前の春、私は不機嫌な大学生として三重の田舎から神戸に出てきた。
なぜ不機嫌だったか。それはごくありきたりで詰まらない理由、第一志望の大学ではなかったからである。
私は東京のW大学を目指していた。そう、言わずと知れたあの有名マンモス校である。三重の片田舎から憧れるW大学は、大都会の雑踏と活気と自由の香りに溢れていた。東京のど真ん中、あらゆる地方から集まってきた学生達が、あらゆる服装で広いキャンパスを闊歩しながら、あらゆる話題に興じる。そんな大学生活を夢見て着いた先が神戸の小さな女子大だったのだ。

私の地元から神戸に出るには近鉄特急を使う。東京に出るのにも近鉄特急を使う。神戸に行くには大阪行き、東京なら名古屋行きに乗る。しばらくはどちらも同じ線路を走っているが、中川という小さな駅で運命は分かれる。中川を出てすぐに線路が二股に分かれ、名古屋行きはそのまま海岸沿いに、そして大阪行きは果てしのない山の中へと入っていく。私は小さなボストンバッグを抱え、海岸の方へ消えてゆく線路を切ない思いで眺めながら、文字通り泣く泣く大阪に続く山へ入っていった。

私の行く大学は、当時お嬢様学校と言われたミッション系のお洒落な女子大だった。関西では最も憧れられる阪急電車の沿線沿いの、閑静な住宅街の中にある。大学の建物は由緒ある建築で、こじんまりとしたキャンパスは緑に溢れ、どこをとっても絵になるとても美しい大学だった。
しかし私はそんなものは露ほども求めていなかった。都会はどこに?雑踏はどこに?活気はいずこに?絵のような美しさは、寧ろ私の心に反抗心しか引き起こさなかった。
そんな、大学に文句しか持っていなかった私だが、それでもこれから始まる新生活そのものには不安と共に多少の期待を持っていた。私は学内寮に入る事になっていたのだ。文句しかないとは言え、客観的に見てとても綺麗な大学だ。その学内寮なのだから、少なくとも綺麗である事は間違いないだろう。希望していた生活ではないのなら、せめて日々の生活は絵になるような美しい場所で過ごしたい。
しかし寮の玄関を入り部屋に通された私は、想像とのあまりの違いに呆然とした。寮はただ古いだけの、味も素っ気もない部屋だった。大学と違い、風情も何もない。板張りの狭い部屋に、造り付けの二段ベット、その奥にこれまた造り付けの勉強机が四つ、そしてその机の間にテーブルが一つ。一体いつの時代からあるのかと思うような古い絵柄のカーテンとテーブルクロスが部屋をいっそうダサくしている。ベッドは安い船室やどこかの合宿所にあるような木の二段ベットで、上のベットは柵が低くて落ちそうだし、下のベットは限りなく暗い。天井の蛍光灯は剥き出しで、全体的に温かみといったものが皆無だった。どうみても女子大生の住む部屋とは思えない。良く言って修道院だ。
そんな無機質な部屋に段ボールが九個、どんと置かれていた。事前に荷物を送る事になっていたのだが、その時の規定が、みかん箱3個まで、だった。これから1年間生活するのにみかん箱3個とは、あまりにも少なくないかと思っていたが、この狭い部屋を見て納得した。

私の部屋は三人の相部屋だった。私が部屋に着いた時には既に二人の住人が荷解きを始めていた。どちらも両親が一緒に手伝っている。一人は真面目で落ち着いたノーメイクの子、もう一人はハッキリした顔立ちの、シャキシャキした子だった。真面目そうな子の方は、両親共々、黙々と荷物を解いていた。ハッキリした顔の方は大きな声で始終母親と喋りながら活発に部屋中を飛び回って作業していた。その子は母親の事を「すーちゃん」と呼んでいた。
私はここでやっていけるのだろうか。心から不安になった。
これが私の女子寮生活の幕開けである。

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