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上杉謙信の思いは誰にもわからず……【歴史から見る生前整理】

自分の思いを誰にも伝えていなかったことで、
まさか、自分の死後に、大事になるとは……
想像もしていないことは起こり得るものです。

戦国時代、越後の国(新潟県)から登場した『上杉謙信』
「軍神」と呼ばれるほどの圧倒的強さを誇った武将で、
その強さに織田信長をはじめ、日本中の戦国武将が恐れていました。
また、川中島の戦いで、武田信玄と戦った武将としても有名です。

しかし、その謙信は、関東に向け大遠征をしようという直前に、城内の厠で急死しました(享年49。酒好きだったため、過度の飲酒による脳卒中が死因という説もある)。
関東遠征が終わったら、次は京都に向かい織田信長と決戦するつもりだったでしょうから、さぞ無念だったと思います。

その謙信の急死により、親族や家臣をはじめ、上杉家は大混乱に陥りました。
しかも、謙信はすごく大事なことを決めていませんでした。
それは、謙信亡き後の上杉家を誰に継がせるかということでした。

謙信は生涯を独身で通し、実子がいませんでした(熱心に「毘沙門天」を信仰していたという宗教的な事情が独身の理由とも!?)
代わりに、2人の養子を迎えていました。
ひとりは、謙信のお姉さんの子「上杉景勝」
もうひとりは、元々は敵対する北条家からの人質だった「上杉景虎」

なお、先に養子になったのは血統的にも近い景勝で、
後からの養子であり、しかも敵対国からの人質だった景虎より、
普通は景勝が後継者になるものと想像されますが、
実は、「景虎」という名前は、謙信が与えたもので(元々の名前は「北条三郎」)、しかもこの「景虎」という名前は、謙信が元服した際に名乗った最初の名前でした(謙信の初名は「長尾景虎」)。
このため、謙信が自分が使った名前を与えたということは、すごく期待しているということの現れとも思われていました。
こうした事情もあり、謙信の周りの誰もが、どちらが後継者になるのかをまったく想像できませんでした。

そうした中で起きた、謙信の急死。
遺書も遺言もありませんでした。
その結果、景勝と景虎の間で上杉家中を2分する跡目争い(御館の乱)が起き、家中同志で殺し合う事態となってしまいました(結果は、景勝が勝利。景虎は敗れて自刃)。
この争い以降、上杉家の力は衰え、織田信長の勢いに押され続けることになり、最終的には、豊臣秀吉に従うことになりました。

謙信は、自分の後継者を誰にするのか決めていたのか?
それとも、自分はまだまだ元気でいるから大丈夫と思い、決めていなかったのか?
その思いは誰にもわかりません。
なお、織田信長も武田信玄も、自身の後継者は早くから決めて、周りに宣言していました。
謙信も前もって後継者を決めておけば、引継ぎもスムーズに進み、多くの人が死なずに済んで、上杉家の力も保てたかもしれません……

「後のことは誰かが何とかしてくれるだろう」と思っている人が多く見受けられます。
しかし、自分が思っている以上に、自分の死は周りに大きな影響を与えます。
しかもその時は、まったく思いもしなかった時に突然やって来ることがあります。
自分のためにも、周りの大事な人のためにも、
自分の思いは元気なうちに必ず残しておきましょう。
これも大事な『生前整理』です。

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