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おじさんが書くおじさん臭くない文章とは何かを考えてみた

とある文章を読んで、ふと、おじさんぽい文章について考えこんでしまった。

そのとある文章をとあるSNSでたまたま目にしてしまい、そのむせ返るおじさんぽさに僕のおじさんスカウターが壊れるほどにおじさん力の値が天元突破していった勢いで、思考がおじさん回廊に次元転移してしまったのだ。

おじさんぽい文章には「懐古(いまどきの若いもんは的なもの含む)」「アレオレ」「上から目線」「野球に例える」など様々なエッセンスがあると思うが、その文章は、あらゆるパラメータでバランスよく高得点を取っている感じの文章だった。

かくいう僕もそろそろガチのおじさんに足を踏み入れん(踏み入れてるかも)とする年齢なので、いやだいやだと願い乞いつつどぶ板まで一緒に踏み抜いてしまう可能性は大だ。そういうわけで、一回自分なりに定義をして避けるべきスコープを明確にして、かつ理想を分析しておきたいと思ったのだった。

一つ断っておきたいのは「おじさんが何かを表現する行為」そのものは尊いと思う、ことだ。おじさんでなければ発揮できないクリエイティビティは確実にあるからだ。あるんだよ、確実に。

例えば、僕がその文章を愛してやまない山羊メイルさんはおじさんではあるが、その文章こそは「おじさんでないと書けない文章」の好例だと思う。35歳の僕の延長線上にある表現であるのは間違いないものの、読む度にその教養の深さや奥行き、そして恐らく人生経験に裏打ちされているであろう彼我の歴然とした差を実感して、10年後くらいには俺もこういう文章書けるようになりてえな、と素直に思ってしまう。

これとかほんとすごいから。小説を書いている同僚を含め、社内外でもう何人に勧めたかわからない。そしてここでもまた勧めてしまった。

ただし、冒頭の「おじさん力天元突破」も山羊さんのような人の文章も「自らが持つ知識や経験を下敷きにしつつ思いを語る行為」であること自体は変わらない。変わらないが、前者はおじさんスカウターを破壊し、後者は何回読んでもいいなあと思わせる。その違いは何か。

キーワードは「コンテキスト」なのかなと。あんまり好きな言葉ではないが「甘え」と言ってもいい。

きちんと思いを伝えるには、双方のコンテキストを合わせるのが必須だ。例えば、40歳と20歳がおしゃべりしましょうとなった時、素の状態でそのバックグラウンドが一致している可能性は低い。だから多分、まともなコミュニケーションを取りたい40歳であれば、まず最初にちょっと探って何らかの共通点を見出していくと思う。

おじさんぽい文章とは、こういったコンテキストの共有をサボってるものなんじゃないかなと思う。そのコストを払わずに4-6-3のダブルプレー!みたいな感じで頭ごなしにおじさんぽい言説をしたらそれは、スカウターも壊れようというものだ。この理屈で言うとそもそもこの「スカウター」自体おじさんぽい可能性がかなり高いが、いったんそこは目をつぶるものとする。

文章のような一方向のコミュニケーションでコンテキストの共有をやるコストがかなり高いのは承知だが、それでもいいなあと思わせるおじさんの文章はここを上手に処理しているように見える。コストを承知で丁寧に説明したり、フレージングで世界観(これは小説などに限らず、文章一般)に引き込んだり、謎を措定したり、逆にさっぱりと説明したり。(「昔々、あるところに〜」は「さっぱり」の最たるものな気がしてきた)

もちろん、何を伝えるかが一番重要なのは確かだが、それをどう伝えようかとする配慮に知性とか品性は滲み出るんだと思う。文章に限らずに。こうした知性や品性が、その表現をおじさんぽくたらしめないファクターだと今日時点では結論づけたい。僕が本格的なおじさんになるのは最早時間の問題だが、いつまでも張りを感じるものを書きたいし、せめて、知性とか品性は備えていたいと思う。

より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。