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エポックメイカー=ランサーズ

ランサーズOBの小山です。上場おめでとうございます!当時を振り返りながらリレーブログを書いてみました。

▼『卒業生がつなぐ#私とランサーズ』バックナンバーはこちら
・01やましゅー「ベンチャー、ランサーズ、僕」
・02みのぐち「嵐の中を突き進む力」
・03さかえだ「戦友」という存在を得た場所」
・04ザック「RUNサーズ」
・05ぬまぬー「人生を切り開く言霊 〜上司にもらった本気の言葉〜」
・06よしの「株式会社リートだった、ランサーズの「あの頃」」
・07とがし「誰もが新しい働き方を創る同志だった」
・08あおき「新卒がスタートアップで学んだこと」
・09ながた「失敗と成長を共に歩む」
・10つぼい「新卒でスタートアップに入社するということ」
・11あかし「ビジョン×エグゼキューション=スタートアップ」
・12よしもと「ビジョン実現を目指し、軋む螺旋階段を登る」
・13あしざわ「「マーケ未経験26歳男」がスタートアップで見出したキャリア」


▼最初に

12月9日にランサーズ上場と聞いたときに僕は思わず目をきゅっときつく細めた。

ランサーズで過ごした日々で感じてきた、その時々の喜怒哀楽の感情が、
一気に脳内に流入してきて一時的に感情が整理できなくなったからだ。

僕はこれを書いている時点でもうすぐ33歳になる。年齢的にはIT業界の中ではフレッシュな若手というよりもミドルといわれる層に差し掛かろうとしている。

※余談だが僕は入社してすぐに「角刈り」とか「見た目はシニアな部長クラス」と一部の人(主に現執行役員のM沢さん)に言われていた。見た目はすでにミドルを越えていたと。ショック!

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上はM沢さんに角刈りと言われていた時期に隠し撮りされた写真。
※M沢さんFBから拝借しました!

そして、僕が在席していた2014年~2017年それ自体も、ランサーズが鎌倉のベンチャーだった時代から、ITベンチャーが群雄割拠する渋谷に名乗りをあげて新しいビジネスモデルを携えて一旗も二旗も挙げようとした時代だった。

こうしたことを踏まえて改めて振り返ると、僕のランサーズに対する端的な印象はエポックメイキングな(時代を作る)会社であるということ。

この記事ではこれからも時代を作る会社であることを確信しつつ、その過程を小山視点からお知らせするものである。

ご笑覧いただけると幸いだ。

▼入社するまで

僕が入社したのは2014年7月である。それより前までは地元福岡で働きつつ、東南アジアでの起業準備をしたり、中国の問屋街で仕入れたものを日本のECサイトで販売していたり、日本の刀鍛冶が作った和包丁を海外に販売するECサイトを運営するなどしていた。

そして、起業準備やEC販売の全てが売り上げ的には失敗で、借金と実家の大部屋一つが埋まるほどの在庫も抱えていた。

そのころの僕は本当に周りからいろんな支援や励ましがあったにもかかわらず、それ以上に自分の失敗にばかり目が行き、世の中に自分を認めさせたいとか見返してやるとかあっといわせたいという気持ちでいっぱいだった。


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気持ちいっぱいだったときの写真。新宿でよく職質されていた。

自分個人でやることの力不足をEC販売を通じて痛感したので、もう一度組織の一員として働くべく、会社を探した。

海外ECサイトを運営するときにクラウドソーシングを使って翻訳を依頼していたことからもともとクラウドソーシングに興味があったこと

どうせやるならクラウドソーシングでもっともエッジがきいている会社で立ち上げのフェーズにある会社。(あっと言わせられるポテンシャルがあるという意味で。)

こうして、絞っていって出会ったのがランサーズだった。何よりも「個をエンパワーメントする」という世界観が僕自身の当時の境遇からの救いになるような気がして並みならぬ縁を感じていた。

そして、面接中にA立さんに興味を持っていただき、その場で合格し、その後にすぐ秋好社長の面談をいれてもらい、晴れて入社することができた。

▼入社当時の話。
 

入社した時は、まだ社員が50人もいなかったと思う。ビルの半フロアにぎゅうぎゅうになるように人がいるにも関わらず、どんどん人が毎月増えていくので二酸化炭素濃度が高くなってきているのか、本当に息苦しいときすらあったのだ。


 僕が所属していたのはビジネス開発部という部署への配属だったが、最初の仕事は広報用のインタビュー動画の作成。福岡でインタビュー動画を作成する会社に勤めていたのでその時の経験に目をつけていただいた上での広報のM口さん、U田さんからのご依頼だった。


 当初は、あれ?事業開発って広報の仕事もするのかなと思いつつもお役に立てるならと思い引き受けた。これぞ、ベンチャーの醍醐味や。


 そして、結果としてこのお仕事は僕がランサーズという会社そのものが大好きになるきっかけになった。インタビューに出てくれたのは、金型のデザインをランサーズ上で発注した都内にあるお菓子屋さんである。この方はインタビューの合間に、その金型でつくったお菓子をふるまっていただきながらこうおっしゃっていただいた。「私はランサーズがなければ起業ができなかった。一つ一つのデザインを見積もりだしている暇もないし予算も限られている。ランサーズはこれを全部解決してくれた。デザインも既存のデザイン会社では出てこないようなともてユニークなデザインですごく気に入っている。この事実を是非伝えて欲しい」と。


僕はランサーズはこの方のエポックを作ったのだと感じたし、入社の初仕事で触れることができたことはとても幸いだった。僕自身の入社の動機と、ユーザーさんの熱量、ランサーズの世界観が僕の中で腹落ちして合致した瞬間でもあった。

▼Lancers for businessの黎明期

僕が入社したタイミングはLancers for business(現 Lancers Outsourcing)という法人向けのサービスの立ち上げの時期だった。まだ勝ちパターンのようなものはなくて、クラウドソーシングが提供できる無数のソリューションの中で手探りで勝ちパターンを模索している時期でもあった。

僕と言えば、とにかくお客さんの発掘ということで、検索エンジンから代表番号を探し出して一日中電話をかけてやっと1件LPの案件が顕在化するというようなありさまだった。最初の数か月はとにかく数字がでなくて、でもしゃべりすぎて喉も毎日痛くて、帰宅の際に通る並木橋の下を走る電車を見ながら「俺、何やってんだろうなー・・・。」と思いながらとぼとぼ帰宅していた。

一方、その中で圧倒的に結果を残していたのが、現執行役員のH井さんである。飽くなき達成欲求とサッカーで鍛えた黒光りしたガタイから生み出される芸術的(たまに野性的)な営業スタイルでチームで一番営業実績を出していた。H井さんの案件を見ているとライティングの案件が多かった。ライティングの案件はランサーズが持っているライターさんの大量のDBとwebメディアの記事作成という続性の高いニーズのマッチによって生み出されていた。

そして、継続率が高いので毎月積みあがっていくことができるような性質があった。H井さんが注力して獲得していたwebライティング案件はそのままLancers for businessの主力商品「コンテンツマーケティング支援」として横展開されることになる。


 これはあくまでも私から見た主観であり、実際はもっと複雑な要因が絡んでいると思うが、当時の僕はH井さんの動きはLancers for businessの新しい時代を切り開いていて心底すごいと感じていた。H井さんはそこまで数多く語るタイプではないが、まさに背中を見ながら見よう見まねでやり方を盗もうと当時の僕は必死になっていた。

とは言っても、たまにH井さんに叱られるんだけどね。。(余談だが、H井さんは僕を営業面の力不足で叱るときは親指と人差し指をきつくこすりながらこっちに向けて「小山さんは営業分かっていないね(汗)」と言う。黒光りのガタイの良いH井さんにやられると、僕は「あぁ、こすられてるぅ・・・」と思いながら聞いていた。今とってなってはいい思い出だ。)

▼勝ち癖のあるベンチャーは良い意味でいなごの群れのような勢いがある。

 2015年になると営業マンとしては案件もとれるようになってきて、会社としてもコンテンツマーケティングのニーズに応えられるような組織体制を整備していった。僕自身もユニットリーダーと言われる4~5名からなるチームをまとめる役回りを任せてもらえるようになった。

各チームそれぞれの特色があり、ボードメンバーの紹介やH井さんがとってきた案件を深耕して商流を拡大していくのが得意なチーム、先方の担当者と関係をがっちりつかんでその会社内の色んな部署に横展開していくのが得意なチームなど様々なやり方で各々数字への達成とランサーさんへの貢献を目指していた。


 僕が得意だったのはド新規の開拓。今となっては「青いな・・・。」と思えるが、入社の動機も相まって、いかに自分の力でマーケットを開拓するかということに注力していたためド新規開拓にこだわりがあった。

やり方はクライアント候補になりそうな企業様のお問い合わせフォームのメールアドレスをアルバイトの方やランサーズで発注して抽出。

それをクローリングリストとしてまとめて、スプレッドシートの関数を組んでボタン一つで一斉メール送信をしていた。(お手製のMAツールである)そして、反応のあったところに赴いてまずはフィジビリティ(試験発注)を取ることに注力し、フィジビリティ後にポテンシャルがあると判断したご案件に注力して案件を拡大するというやり方である。

この流れを仕組化できたので小山チーム単位で案件数に困ることはほぼなかったと記憶しているが、問題もあった。フィジビリティの数も多いので、一つ一つ丁寧に対応できる時間が限られ、お客様のご対応や案件管理が粗い部分が多かった。そして、当時のチームメンバーの方々に僕の粗い部分を補っていただいたし、当時の上長であるS田さんには社内外に先回って調整をしていただいたと聞いたこともあり、反省と感謝しきりである。


 ただ、いずれにせよ当時の僕は新規開拓する魅力に取りつかれ、昨日より明日が明日より明後日の数字が積み重なっていく変化が楽しくて、会社に出社するのが楽しみだった。日曜日の夕方になると翌月曜日は何を試そうかと考えながら過ごしていたりしていた。そして、朝9時前に出社して夜23時~24時ぐらいに帰宅するサイクルを過ごしいていた。その合間の夕飯はよくS田さんとO生さんの3人で会社の対面にある回転すし屋とかやよい軒とかで「今日も疲れたなー!」みたいなことを言いながら日々の数字達成に邁進していたように思う。

 もちろん、楽しいことばかりではない。僕自身の力不足によりたまに案件進行上のトラブルがあった。そして、当時の事業開発部の数字は月末までに回収される検収手続き完了が根拠となるため、月の数字達成に影響がでるような大型案件で、月末の最終営業日の23時58分までお客様と調整しながらなんとか検収手続きを完了させた経験もある。

しかし、こうした日々の変化に対応しながら数字達成とミッションへの貢献という目標(もとい大きなプレッシャー)を目指す様は激流中の川下りさながらの感覚はあったと思う。そして、なんとか対岸に辿り着いて(生き残って?)、また来月!と繰り返していく。

 当然、数字を達成したあとの飲み会や合宿はすさまじい熱量と激しさがあった。まさに饗宴ならぬ狂宴である。詳細は省くがまずボードメンバーの勢いがすごかった、現場も負けない勢いがあった。一時期は渋谷のセンター街のど真ん中のバーを貸し切って女装コンテストなんかもやっていた。(優勝したO生さんはまんざらでもなかった。)

A立さんのお言葉を借りると「勝ち癖のあるベンチャーは良い意味でいなごの群れのような勢いがある。」とおっしゃったのはまさにこの時代の描写として的を射ている。

そして、僕自身も御多分に漏れずこの熱狂に感染していた。上記のような飲み会があったあとは会社の同僚何人かと一緒に渋谷や六本木のクラブに行ってさらにテキーラをあおりながらベロベロに酔った状態で「ピリオドの向こうに行グゼ!」「もっと稼グゼ!」みたいなことを言っていた。その時の僕の知性と品性は渋谷の谷底よりずっと低いところにあったと思う。

というか、角刈りのシニア部長顔が渋谷と六本木のクラブでテキーラあおって踊り狂って「ピリオドの向こう」とか言ってたと考えると、その時の熱量ぶりが伝わるでしょ?w

▼ピリオドの向こうに行くまえに退職。
 

これを書くのは勇気がいるし、書くのをためらったが、ここまで書かないと「ランサーズと私」にならない気がするので敢えて書いておきたい。上記のような時代は2016年のコンテンツマーケティングに関するマーケットの考えが一気に変わったことによって終わりを迎えた。(ように少なくとも僕は思う。)秋好さん始め会社全体として悩みに悩み今後のクラウドソーシングのあり方について考え抜いて意思決定をしていらっしゃったと思うので私はうかつに詳細や推測については書かない。

ただ、いずれにしても2016年の秋から冬に差し掛かってLancers for businessの勝ち筋であったコンテンツマーケティング支援が今までと同じようには行かなくなった。マーケットニーズが(私から見たら)突然激減したのである。それに伴い、チーム体制も変更し、営業は営業、ディレクションチームはディレクションと職能ごとに区切られることとなった。それに伴い、僕も営業チームの一員として役回りを変更することとなった。社内の空気も一変した。


 それより前にあったグルーヴ感も感じられなくなり、縦割り感が出てきたように感じられた。(今となっては次の何かを生み出すためにもがいていたのだと感じられるが。)結果として僕自身に何が起こったかというと、リアルに体が動かなくなった。日曜日の夕方に感じていた楽しかった出社が憂鬱になった。そして、朝起きるのに勇気を必要とした。こういうと、プロフェッショナルとして働いている同僚の方々に本当に申し訳ないのだが、仕事に身が入らなくなってしまった。

自分の成功パターンが通用しなくなったショックと、社内の空気の変換に戸惑ったことなどが合わさり、急に居場所がなくなったように感じられたのである。また、その間にも上長がS田さんからS藤さんに代わり、マネジメント方法の違いに僕がとまどったのかうまくかみ合わなかった。(今となれば僕が未熟だったと言えるのだが。)結果として僕は次に熱狂できる場所を探して転職した。

 退職になったときに、S藤さんから「小山君は本当にランサーズにあっているから、退職したら後悔するよ」といっていただいたり、H井さんも最後は少し目を赤くしながら「じゃあな、次も頑張れよ」と言っていただいたり(いままでそんなことも言われたことない!)した。

退職後も、数人から冗談っぽく「いつ戻ってくるの?」とか元チームにいたメンバーから「一緒に働けてよかったです。ありがとうございました。」と連絡をもらったり、近況報告なんかももらったりしていた。


 今思うと自分ばかりに目が行っており、ランサーズとしていかにあるべきかという視座が欠けていたように思う。それに、自分が思う以上に周りの方に気にかけてもらっていたのだが、それに気づいたりする余裕がなかったと反省している。

いずれにせよ一つの時代が終わったのだなと思ったことは今も変わっていない。ただ、この時代の苦闘が上場に至るまでのランサーズの新しい勝ちパターンを築いていたのだと思っている。
  

▼おわりに
 

僕はこれを書いている時点で、同じIT業界で働いている。実を言うと、仕事に疲れるとたまに「ランサーズ」と検索してランサーズのHPを見たり、twitterで秋好さんをフォローしていて、当時は大変なこともあったが今は励みとしてランサーズをウォッチしている。


 僕自身は2017年のまさに会社が大変な時期に会社を出た人間である。なので、その後の詳細は知らない。ただ、その後のあり方も含め会社全体が経営数字とミッションへの貢献にもがき苦しみながら、時には容赦のないマーケットの荒波に揉まれながら果たした「上場」に僕は思いを馳せる。

僕自身がランサーズで過ごしてきた日々に対する感情が重なって、ランサーズが退社から上場までの軌跡が本当に薄氷を踏むような思いで覚悟が殊更感じられてしまい、胸がつまってしまった。


 僕は退社後も、N村さん、K保ちゃん、I山さんと月1で麻雀をするのだが、その時N村さんがいったことが印象的だ。「僕らは今あっていたらここまでの関係にならなかった。あの時、あのタイミングでランサーズにジョインをして苦労も喜びも分かち合ったからこうして今も遊んでいるのかもね。」と。


 ランサーズはプラットフォームを通じて人と人を結び付けてエポックメイキングをしてきた。僕が知る限りではコンテンツマーケティング支援というマーケットレベルのものから私個人の人生史に至るまでのあらゆるレイヤーで。もちろん、僕が知らないところでエポックメイキングが行われたことも想像に難くない。


 僕が過ごした日々は過去のもので、それ自体はもうくりかえされることはない。上場することで社会の公器として、これまで違ったランサーズとして変わっていき私が知らないランサーズがこれからも増えていくことになる。

ただ、共通しているのは「個のエンパワーメント」を通じて人と人を結び付けながら新しい時代を創り続けていく企業。それがランサーズであり、それはいつまでも変わらないと確信している。

本当に上場おめでとうございます!

2019/12/31 ランサーズOB 小山 泰祉