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言葉 × 感情 < 文章を書くこと

 昔から、喧しい子供だと言われてきた。友人と話をする際、私が口を開けない瞬間が苦痛で仕方なかったし、ともすれば相手が伝えたい事など、全く頭に入っていない時もあるだろう。
 それが原因で、壊れた人間関係はなかった様に思う。知らない所で、私に対する憎悪を隠し持っている方もいないと思う。そこまで激しい口調で話すタイプでもないし。

 しかし、この『喋る』という行為が、私の感情表現として十二分に役目を果たしていたか、そう考えた時に、私はいつも悩んでしまう。

・伝えたい事があるから、口を開く。

・相手の事が知りたいから、口を開く。

・雰囲気を保つ為に、口を開く。

そんな、汎用的な感情表現としてではなく、ただこちらが喋る事による場の変化を、私は楽しんでいたのだと思う。人より面白い話が出来る訳ではなし、誰かを感動させるでもない言葉。
感情を乗せないただの自慰行為、そんな言葉。

 言葉は時に無限、それでも使い方を誤れば、ボールペンや消しゴムと同じく徐々に消耗していくのかもしれない。そんな事を考えていた、19歳の夏。あと数ヶ月で20歳になるのだな、と漠然とした感覚の中にあって、意図を紡ぐ事なき垂れ流してきた音。
 オオカミ少年が嘘を付いて信頼を無くしたのと同じで、私の吐く言葉は口数に比例して消耗していくように感じた。別に思考を上手く表現するのが偉い事、崇高な事とは思わない。でもいざという時にそれが出来ない私の言葉は、既に枯れ果てた湖に向かって、水の入ったバケツを投げるくらいに無力だった。

 その年、誕生日の一ヶ月前から、少しずつ文章を書き始めた。自己表現を学ぶ為の練習のつもりだった。しかし、どれだけ文字を打ち込んでも、自らの意思は入り込んでいかなかった。
どこからか拝借して来たような借り物、ツギハギだらけの文章。
『こんなもの、書かない方がマシじゃないか』
内なる自分にそう責められた気がした。
 あぁ、幼児が自らの意思を涙で訴える様な、泣き声一つに様々な意図を孕ませるかの様な、私はそんな事すら忘れて口を開いていたのか。
20歳を控えた青年が、自己表現の術もなく、又ロクな文章を書く事すら出来ずにいる......。
──よく今まで、やってこれたものだ。

 枯れ果てた湖を横目に、未だ見つかる事のない文章の源泉を、今日に至っても探している。
苦痛である。諦めようとも思った。ただ、慣れない行為を一つずつこなして行く僅かな喜びというモノだけが、私を押し進めた。
目的地は分からない。
どちらが前なのかすら、分からないのだ。
しかし今日書いた文章に、自らの意思は孕んでいるか。それだけを頼りに文字を打っている。

 今でも、話をする事は好きだ。
酒を飲みながら友人とする何気ない会話、時に相手を笑かせたり、或いは怒らせる時もある。しかし、既に湖は枯れてしまっていた。
そんな自分を哀れみながらも、今日も文字を打ち込むこの行為は、いつか自らの本心を皆に伝える為、誰かに私を知ってもらう為、そして、自身の存在を確立させる為。

 初めて自らの意思で文章を書いてから7年が経った。その文字の羅列から、自分の姿を知る事が、少しずつ増えて来たような気がする。
だから私は今日も書く。明日も明後日も書く。

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