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マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心」に納得

「愛の反対は憎しみではなく無関心」

マザーテレサの有名な言葉。

"無関心であること、苦しむ者に関わりを持たずに傍観者であることが愛の対極にある"

これが真の意味すること。

ふとこの言葉を目にして、その本質とは異なる捉え方で、なるほど、と納得してやけに心に残った最近の感情。

例えば仕事でのやりとりやSNS、そしてこの noteでの投稿。

感謝の言葉や叱咤激励、いいね!の良い反応。
一方クレームや上司や同僚からの厳しい指摘、bad評価など明確になる相手の見解。

1番悲しいのは反応がないこと。

つまり、自分の行動や活動に関心自体を持たれていないということ。

反論や指摘を受けると時にはショック。

しかし、それらは自分の課題や至らない点の気づきや改善に繋がる、ある意味で良薬。

それが無関心だと、Air=空気ように空虚でモチベーションが下がるというか、やっていて意味があるのかな?いてもいなくても同じなのかな?と自分の存在意義に疑問を感じてしまう。

ただ、それはアドラー心理学で言うと"他人の課題"。

"課題の分離"ができていないということ。

"自分の課題"は、あくまで、このような状況であれば、そうならないように工夫して改善を図ること。

それらがどう受け止められるか?どう評価されるか?は"他人の課題"。

コントロールできるものでも期待するものでもない。

無関心なのであれば関心を持たれるよう働きかけること。

やめたり諦めたりするのことは簡単でいつでもできる。

一方で何かを始めることは難しく、そしてそれを続けることはもっと難しい。

だとすれば、せっかく始めたこと、続けていることをやめるのではなく、改善を図ること。

…情けないながら、とあるきっかけで誰かに何かが届けば、そして役に立てば、との想いもあり、noteを始めて日々書いていても、正直、無観客試合のような反応。

つまり、投稿内容が、人の役に立てていない…というより、関心自体を持たれていないということ。

そんな気持ちの中で目にしたこともあり、確かに、とハッとしたマザーテレサのこの言葉。

何が言いたいのかよく分からなくなってしまったが、ひとまず、止めることはやめて、継続はしようと思う投稿。

明確な日数は何回かは忘れたものの、密かに埋もれながら毎朝投稿し続けて150日目くらい?

1人でもいいので、誰か"その人"の役に立てる内容になれるよう、明日からも工夫して、終わりなき旅へ取り組もうと決意。



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