見出し画像

建築の街・コロンバスを見にいく (その③)

この記事は、アメリカ・インディアナ州にある小さな街・コロンバスに建築を見に行った見学記の続きです。過去のはこちら → その①その② 

Fire Station No.4
再び車に乗り込み町外れへ。といっても小さい街なのでほんの10分足らずのドライブで到着してしまう。お目当ては、一見何の変哲も無い消防署。ロバート・ヴェンチューリの設計だ。

彼の仕事といえば、著作『建築の多様性と対立性』がとりわけ知られていて、僕がいた頃の建築学科では近現代建築史を知るための「必読書」みたいな感じになっていた(最近はどうなんだろう)。

その言葉につられて手に取ったのが一年生の終わり頃。通読した感想は見事!・・・・・・・・・に分からないの一言。矢継ぎ早に登場する実例事例を知らないから当然っちゃ当然なんだけど、とにかくそれ以降、20世紀で2番目くらいに重要らしきこの建築書(一位はコルビュジェの『建築をめざして』が相場らしい)は暫くのあいだ、本棚でホコリを被っていた。

次に手に取ったのが、月日は流れ修士二年生のとき。その時は、後輩の卒論ゼミの関連資料として止むに止まれず取り出した記憶が。「昔読んだ時チンプンカンプンだったからなぁ」と気乗りしなかったのだけど、いざ目を通すと案外スルスルと読める。勿論、知識が多少は増えた、というのもあるけれど、ゼミのテーマが実はエーロ・サーリネンだったというのが、理由としては大きかったと思う。"Less is bore" なんていうケンカを売るようなスローガンを、まだミースが生きている1966年にぶち上げ、統一性に欠け加算的、洗練されていない建築を「良し」としたヴェンチューリと、モダニズム建築家のシグネチャーそのものである、統一された作風を持たないことを「良し」とするサーリネンの両者に、どこか共通するスピリットみたいなものを感じたのだった。

さらに言えば、『建築の多様性と対立性』からは、"Less is bore" のケンカ腰とは裏腹の、"あれも・これも"を許容する寛大でポジティブなフィーリングになんだか元気を貰えた思い出もある。この辺になると誤読の域かもしれないけど。

何を言いたいか分からなくなってしまったけど・・・・この消防署である。竣工は1968年なので、『建築の多様性と対立性』と近い時期の作品だ。

先に述べたとおり、本当に何の変哲もなく見える。それもそのはずで、「何の変哲もなく見える」ことが建築家の狙いだったからだ。ヴェンチューリの言説を借りれば、「子供が見てすぐに消防署と分かる」形態をめざしたらしい。※1 なので、(どんなプログラムでも「白い箱」なモダニズム原理主義とは違って)真ん中にはそれっぽい塔があるし、素材もアメリカの普通の建物に使われるレンガなのだろう。

しかし、よく見ると所々に手を凝らした跡が伺われる。例えば建物の左半分のファサードは実は書き割りみたいになっている。しかも、側面まではパラペットを廻さず、「書き割りであることがバレる」ようにわざわざデザインされている。要するに、モダニズム流に形態は機能に従う、のではなく、「これは消防署だよ」のアピールを優先した「デコレイテッド・シェッド」という訳なのだろう。他にも、塔の位置がファサードの中央から微妙にずれていたり、窓枠とペンキの塗り分けが中途半端に揃っていなかったり、「洗練された」建築家であればすぐさま修正したくなるようなポイントが、十中八九わざと放置されている。

50年経った現在から見て、マニエリスティックな趣きもあるこれらのデザインに感動したと言えば、それは嘘になる。どちらかというとファニーに見えてしまうのが正直なところだ。しかし、このファニーな仮面の裏側には、モダニズムと異なるフレームワークで建築を論じ、実践しようとしたヴェンチューリの相当な覚悟が見え隠れしているように思える。繰り返しになるが、この当時ミースはまだ存命だった訳で。大巨匠に楯突くようなポーズが当時40代のヴェンチューリにとって怖くなかったワケはないはずである。

モダニズムに続く決定的な建築の原理なんてものは、未だ現在見つかっていない。そんな状況で、僕たちはヴェンチューリを嗤うことなどできない。彼の作品や言説を過去のものとして忘れ去ってしまうのは、いささか軽率であるように思う。

(つづく)

※1 参考文献:『A Look at Architecture; Columbus, Indiana』 P64

この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?