見出し画像

時間をかけて、学校の意味を考える①

1.今までと同じではない未来

今は全国的に休校が続いていて、いつになったら再開できるのかは誰にも分からない。学校はとりあえず現場として、今までと同じことをどうやって子どもにやるかを考えている。社会機能の維持として、喫緊はそれでいいと思うけど、長期化すればするほど、それとは違う対処法が必要になると思う。

だから、遠隔教育という今までと同じことをオンラインで(再開しなくても継続可能)やろうとする試みが各地で起きている。

でも、そもそもオフラインだろうがオンラインだろうが、本当に「今までと同じこと」は必要なのだろうか。前提となる社会システムや学校システムが崩れたら、今までの当たり前は崩れる。もちろん、これまでの学校はある程度の結果は出してきた。

経済成長や人口増加の恩恵もある(日本全体の教育環境が良くなった効果)とは思うが、学校システムが上手くまわっていたのもある。

ただ、ここからは積み上げてきたものを一旦脇に置く必要がある。

そして、本質をもう一度考え直した上で、学校システムを再構築する必要があるだろう。情報技術の指数関数的な変化、価値観の多様化、成熟社会、昔から言われている以上に社会と学校とのズレも大きくなってきた。世界中で全てのものが、もう一度構築される。

この機会に学校が休校になって、親も子どもも教員も教育委員会も、「学校ってそもそもなんだったんだっけ」を考える。

実はもう何度も考えていると思う。

学校に行けない日々の中で、

毎日子どもが家にいる日々の中で、

意思決定の判断の度に、

色んな声を目にしたり、聞いたりする度に、

「学校ってそもそもなんだっけ」

2.学校の4機能

教員になる前は学校は子どもの学力や社会性を伸ばす場所だと思っていた。子どものもつ能力を引き出したり、与えたりして、個人の力を最大化させることで親も子どもも幸福になる。また、友達との人間関係を作ることで、社会に出てから多様な人との人間関係を作るための練習になると思っていた。教員になってからは、「授業が一番大切」「忙しくても授業に力を注ぐべきだ」と思っていた。

でも、経験を積みたくさんの親や子どもを見る中で、学校が担う側面の多様性が見えてきた。さらに、長時間労働からの転換という視点で、教員の仕事を見ると、自分が子どものため、社会のために、時間や精神を割いているのは何かも考えられるようになってきた。

すると大きく4つの機能に分けられると思っている。

無題

学力、社会性、の二つはイメージしやすいが、さらにエンタメと福祉という2つの面もあると思っている。そして、平成の学校教育はこのエンタメ機能と福祉機能が徐々に肥大化してきたことによって(加えて他の機能とのリバランスをしていないがために)、学校現場の多忙化につながった面が大きいと考えている。

3.誰のための学力か

学力については、個人の能力を最大化することが幸福につながるというモデルを昭和の長い期間行ってきた。それは「良い大学、良い会社、良い給料で、老後も安泰、それが幸福。」というモデルで一般にも認知された。いわゆるシグナリング理論において、企業は学生の出身大学を能力のシグナルとして受け取る。つまり優秀な学生を採用するために、学歴を基準とする考え方だ。

しかし、社会の変化とともに、優秀さの定義や幸福の定義、終身雇用制度の崩壊などにより、このモデルは既に崩壊している。しかしながら、では学力があることは役に立たないかというと勿論そうではない。経済的な安定と安定した雇用と学歴には相関関係があるし、その結果社会全体が安定することは容易に想像がつく。

つまり、昔ほど個人にとっての投資的な効果が絶対的ではないにしろ、社会全体にとっては教育水準の高さというのは重要なことである。このあたりの話は松岡亮二著『学力格差』に詳しい。

もちろん、教員としては、その子が将来くいっぱぐれないようにとか社会が安定するようにとかに加えて、「知を楽しむ」という先人の英知を継承したいという思いもある。それが、今回の学習指導要領の改訂で三領域一事項が整理され、学ぶ内容に加えて「学び方」を身につけることが全教科で明示された意味だと思う。しかも、目の前の子どもは、やっぱり勉強ができないよりも、できた時に喜ぶので大人として何とかしてあげたいと思うのは当然だ。

4.社会性=集団性か?

社会性については、同年代の子どもが集まる学校の特質上、同質性の高さだとか同調圧力が問題としてあげられることは多い。学校現場でも、集団に合わせて行動すること、規則を守ること、などのしつけを大切に考える先生は多い。もちろんそれ自体の大切な面もあるとは思うが、一方でそれが行きすぎて、子ども個人が自分の意志決定を放棄して思考停止に陥ったりする危険性があることも十分認識すべきだと思う。特に低年齢のうちは、批判的思考ができない。集団に合わせること=善となると、個人としての場や状況に応じた判断が知らず知らずのうちにできなくなってしまう。

ただ、子ども達を見ていて感じるのは、やはり人間は群れたい動物なんだということと、集団としての力学は大人の世界でも働くし、むしろ日本以外の国でも当たり前にあるものだということだ。発達心理学としても、社会性の獲得はまずは同質の集団の中での試行錯誤から生まれることは大学でも学んだので、現場で見ててこれかと思うことは多い。ただし、排他的や閉鎖的になることの害や危険性については子どもでも知っておくべきだと思う。

さらに、これからの社会の変化で、人と人とのつながりは形が変化することはあっても、とぎれることはないのは必然だ。資本主義経済も信用経済も応援経済もオンラインサロンもコミュニティも、やはり人と人のつながりは社会としても重要だしスキルとして身につけて損はない。感染症で人と人が密接に対面することは減っても、代替するコミュニケーションは必ず生まれるだろう。

人の感情が動くのはどういう時か、人の行動は何によって規定されるのか、人から好かれるとは何か、これらに対となる概念としての自己とは何か。教員の一個人の経験だけではなく、科学的な視点も入れて子ども達と一緒に考える必要があると思う。

また、熊本大学助教授の苫野一徳氏は学校の目的として、「自由の相互承認」の感度を育むことだとしている。教育哲学の専門家である彼は、個人が幸福に生きるための「自由」の尊さと、その個人の自由が対立して互いに侵害し合わないための相互承認があってこそ、社会が安定して成り立つと説いている。

個人の幸福と共同体の幸福の折り合いについて、今まさに大人も直面している課題だと思う。完全に個人は管理されるが集団として失敗が起こりにくい社会は安心なのか、自粛で個人に委ねられた社会では個人の正しい判断のもとに社会が暴走せずに機能するのか。

そして、これから大人たちはどんな社会を目指して創っていくのか。まさに学校教育における社会性も今立ち止まって考える時にあると思う。


時間をかけて考えていたら、長くなったので、エンタメ機能と福祉機能については、次回。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?