果たして、今の自分はゼロなのか。
言葉は鮮度が大事だ、と思う。
昔、ライフワーク的に物語を書いていたとき、ポコポコと頭に浮かぶワードをひたすらメモしていた。
そのときは他のワードを物語に昇華していく最中で、不意に浮かぶ別のワードたちを形にする手が空いていなかったから、「とりあえず今はそこにいてくれ」、というつもりでメモをするのだけど、そうやって溜まっていったメモから、別の機会に物語ができた試しはなかった。
物語を書くことは釣りに似ていると思う。
自分が書くようになるまでは、物語というのは、自分の中にある言葉を集めて、自分の頭と手を使って好きに書き上げていくものだと思っていたけど、そんな自分の意志で自由自在に書けるものでは決してない。
いるかいないかわからない魚が釣れるのを期待して、大海原に小舟で一人、頼りない釣り糸を垂らす。
何も手ごたえのないときが当たり前で、たまにアタリを感じたとしてもほぼバレる。
まれに釣り上げることができたとしても、それは食べられない魚だったりすることの方が多い。
それでもがんばって釣り上げた魚たちを、とりあえずバケツに入れておく。
そうして陸に帰り、その魚たちを見ていると、さっきまで活きが良かったのがウソのようにそれらはみんな死んでいる。
そんな毎日。
知っている誰にも全く会わず、働かず、ひたすら執筆と向き合った期間がこれまでの人生で3か月だけある。
とにかく毎朝図書館に行き、道向かいにあるコープで昼食を買い、閉館まで机に向かう。
そう書くと朝から晩までガリガリ書いているように想起されるが、もちろんそんなことはなく、机に向かっているほとんどの時間は手が動かない。
浮かんでは消える言葉たち、脱線する思考。「資料探し」と自分に言い訳して、館内にある無数の書物に逃避する自分との闘い。
お昼と夕方に休憩して、外のベンチで飲み食いする。
当時はお金ももちろんなかったから、お茶を持参してひたすらバナナを食べていた。
ベンチに座っているとすずめが寄ってくる。
何かをくれると思っているのでバナナの皮に付着している身のかけらをはいで投げてみる。
食べる。
「すずめってバナナを食べるのか…」と、どうでもいいことを知る。
そんな時間を丸3か月費やしてできたのは、一応は完結している小説らしき文章の固まりひとつと、手乗りでバナナを食べるようになった数羽のすずめたちとの絆だった。
それまで、物語を書き上げるということが一度もできなかった。
話のアイデアだったり、ある一つの表現だったり、タイトルだったり、実体のない表現衝動だったり…なにかを取っ掛かりにして書き始める。
書き始めのうちはおもしろいと思う。
これを形にするんだという意欲に燃えている。
新しいものが生まれるかも知れないという希望にワクワクしている。
着想したおもしろさの核に早く辿り着きたくて、文章を書き進めていく。
それが途中で気が付き始める。
この道は、その核に通じていないのでは…。
それでも今さら引き返せず、書き進む。
自分の中に生まれた疑念から目を背けて盲進する。
そのうち、もっと恐ろしい真実に気が付く。
核に通じていないのではなく、核そのものがただの幻想だったことに。
そうして筆が止まる。
腐る。
腐る。
腐る。
精神が腐ったとて、肉体はそう簡単には腐らない。
…このままではいられないと、やがてのそのそ起き上がる。
そしてまた性懲りもなく自分の中に何かを見つける。
書き始める。
その繰り返し。
「今回は、おもしろくなくても、苦しくても、とにかく書き上げること」
覚悟を決めて、仕事を辞めて、誰も知らない街に引っ越しをして。
それだけを目標に3か月という時間で何とか形を為したその小説らしきものは、書いた自分が読んでも到底おもしろいとは思えなかった。
それでも、
「自分がおもしろいと思うものと、誰かがおもしろいと思うものは違う」
なんて使うシーンを間違えてると本当はわかっている言葉を、無理やり自分の心の拠り所にしてとある文学賞に応募したりしてみたけれど、当然箸にも棒にも掛かることはなかった。
ただ、「今回だけは逃げずに書き上げた」という事実ができた。
内容の酷さは自分が最も理解しているので、自信とまでいうことはできない。
しかしながら、“やり遂げた”というのは一つの事実で、
「一つのゴールだと思い込んでいたこれが、第一歩なんだな」
とわかったのは大きな収穫だった。
また、もう一つ大きく学んだことは、「ゼロだな」ということだった。
物語を書き上げる前に、完全にガス欠状態になった。
自分の中から何も出てこない、空っぽだった。
知識も経験も思考も、何かを書くには充分持っていると自負していたそれらは全くの勘違い、自分のレベルの低さを知った。
それでも何とか書き上げたのだが、圧倒的に足りないと自覚することができた。
そのおかげで、
「自分が本当に何かを書き上げる人間ならば、そのときはいつか訪れるだろう。それまではこの道を歩くべきではない。歩いてもどこにもつながらない。違う道を歩くことがきっと自分にとっては意味のあることだ。そうして辿り着く場所が思い描いていた場所とは違っても、それはそれでいいのだ」
と思うことができた。
そうして、今ここにいる。
果たして、今の自分はゼロなのか。
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