一日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法【bookノートB】
20世紀は、知識が豊富であることが頭の良い人の定義だったが、21世紀は違う。
思考力、想像力こそが求められているのだ。
「考える」こととは、
「概念の海に意識を漂わせ、情報と知識を分離・結合させ、整理する行為」。
この行為においては、メタ思考が大切になる。
メタ思考とは、物事の上位概念 (メタ) を考えて本質に迫り、
再度具体的な各論に落とす思考のことである。
そのようにして「考える」ことが可能ならば、
問題に潜む最も重要な因子に注力して圧倒的に稼ぐことも、
1日あたり3時間だけ働いて不自由なく暮らすこともできるようになる。
「考える」ことは、最強のスキルなのだ。
「本当に考えた」といえるのは、
・代替案を出すこと
・具体案を出すこと
・全体像を明らかにすること
・本質を見抜くこと
の4つができたときだ。
1つの案にこだわらずB案、C案を出せることが「代替案を出すこと」だ。
また、案は行動可能なレベルまで具体化せねば意味がない。
それが「具体案を出すこと」だ。
「全体像を明らかにすること」では、
「時間軸」と「空間軸」を意識して物事を俯瞰する。
「本質を見抜くこと」は、応用がきき、時が経ってもかわらない、シンプルな核心を見出すことである。
先述のメタ思考の最終的な目的は、
この核心を見抜き、ここにメスを入れる案を見つけることである。
では、日々どのようにすれば、考える力を鍛えることができるのか。
そのためには、つねに本質を追求すべく、「考える」「話す」「書く」の3つをサイクルとして確立することだ。
まずは、自分の分析について、
何か気持ち悪いという感覚を大切に、
その気持ち悪さがなくなるまで「考える」。
「本質的には~」を口グセにして、積極的に話す機会を作る。
そして、思考を形にすべく、図なども取り入れながら紙に「書く」。
書いてはじめて思考が固定される。
思考力を鍛えるサイクルをまわし、先へ進むには、知識が不可欠である。
しかしあくまで、自分の意識を思考の主体として自由に動かせるという前提で、知識を得ていくべきだ。
意識と知識が思考の両輪となる。
効率よく知識を取り入れる最強の方法は読書である。
とくに古典もしくは教科書を読むとよい。
現代まで読み継がれている古典は、本質を突いていると考えられるからだ。
教科書を読めば、体系化された知識が得られる。
自分が問題意識を持ったテーマについて学びたいときは、
入門書で全体像をつかみ、
次に専門書で問題意識を掘り下げるとよい。
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物事の全体を正しく分けるために、「ペア」を想起し、相手方を考えるのが「二項対立」である。
二項対立の1つに、「目的と手段」がある。
目的は、さらに上にある目的の手段と考えられるため、「これが手段だとしたら目的は何か」という思考ができる。
また、手段は常に代替可能と考えられる。
そのため、ある手段がうまくいかなくても、二項対立の考え方を通じて別の手段を想定しておけば、そちらがうまくいくことが多い。
このように物事を分解した上で大切なのは、
あらゆる問題は有機的につながっていて、
問題の本質は根本的なところにある、と考えることだ。
ひたすら考え続けても本質解にたどりつけないときは、
一度考えるのをやめてみると、
解が自然と浮かび上がってくることもある。
こうしたことは辛い作業でもあるが、
意思と努力をもって考えることこそ、
日々凝り固まる固定観念に抵抗し、
自分の世界を自由にする力となるのだ。
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2020年の東京オリンピックを境として、日本の社会システムや産業に大きな変化が訪れるという。
社会・お金・仕事・個人における変化は、互いに影響しあい、次のように複雑に絡まりあっている。
社会と個人は対立する概念であり、
個人は仕事を通してお金を得る関係だ。
またお金は社会に共通する言語であり、
個人が生きてゆくための原資でもある。
まずはお金について考察してみよう。
お金はそもそも、信用を、組織や国が外部化して担保したものだ。
具体的には、硬貨や紙幣が発行されて現代のお金の仕組みができた。
お金の本質は信用だといえるわけだが、21世紀、お金はまさにその本質である信用に回帰する。
お金自体の重要性が減り、
個人がお金の代わりになるような信用をつくり、取引をすることになる。
これは信用主義経済といえる。
変化はすでに起きている。
たとえば、車や家でさえ、お金を実際に払わずとも、自分の私的ネットワークで手に入れられる。
また、信用を現金化するツールとして、クラウドファンディングや、
個人が模擬株式を発行できるVALUなども隆盛している。
SNSでは、参加する人が価値を生み出せば、フォロワー数とつながりの密度がつくられ、その人の信用となる。
その信用は偏差値として換算され、
個人の時間単価などの計算に使われている。
信用主義社会においては、信用と、
そのおおもとになる価値を創造する力が大切になる。
さてここで本質に立ち戻ってみると、
経済にはお金が必要なのだろうか。
経済とは価値が回ることである。
お金は便利だが、お金で取引すると、商品に付随したつながりや物語といった文脈が漂白されてしまう。
たとえばコーヒー1杯にこめられた、豆の生産者の苦労や気持ちは、「○○円」と金額で語られたとたん、損なわれてしまう。
この「文脈の毀損 (きそん) 」は、お金というツールによる弊害であり、私たちの幸せを阻害している。
その解決策となりうる、お金が介在しない経済活動が、
時間資本主義と記帳主義だ。
前者は、関係を築いたり一緒に楽しんだりするような価値の交流に、お金でなく個人の時間が通貨として使われる。
後者は、たとえば「料理を提供する/してもらう」というやりとりを、通貨に精算することなく記録する。そして「貸し借り」で経済を回していく。
これらの流れは、人々がモノそのものより関係やつながりを欲し、
お金が交換ツールとしての意味を失っていくとともに、信用主義経済に収束していくだろう。
「皆が信用を求めていて、それを信用でやりとりする」ことになるからだ。
お金が本質へ回帰するのと同様、
社会は、その最小単位である小さな共同体、つまりコミュニティへと回帰しつつある。
日本社会では、これまでの王道だった「会社員となって家族を養い、家を買う」という生き方を選ぶ人たちが減っている。
一方、ニートや若年派遣労働者、シングルマザー、独居老人といった層が増加している。
これまでのマジョリティとマイノリティの比率が逆転しつつあるのだ。
マイノリティはそれぞれ小さなコミュニティを形成し、
そうしたコミュニティが数多く乱立するだろう。
その変化は、大規模な単一価値観のソサエティの崩壊を意味する。
さらには、中央集権的なタテ社会からフラットなヨコ社会への移行を意味している。
タテ社会においてはお金が重要だった。
しかし、ヨコ社会ではそうではなくなる。
ヨコ社会においては、シェアや貸し借りなど、信用を中心とした経済システムがお金を駆逐する。
結果として「文脈の毀損」が防がれるので、
物語や人間の関係性が保たれる。
一方でお金は、コミュニティ同士のやりとりにのみ、使われることになる。
コミュニティは、超国家的にもつくられはじめている。
インターネットが国境という分断をなくしたためだ。
やがて、それぞれのコミュニティは独自の法律やインフラを持つようになるはずだ。
社会がコミュニティの乱立へとその性質を変えていく中、
私たちの働き方や仕事もまた変わっていく。
仕事は、労働ではなく、コミュニティに対して貢献することへシフトする。
関係が重視される新しい世の中では、
作業だけでなく、一緒にいること自体が価値となり仕事となる場合もある。
会社組織においても、学歴やスキルでなく「一緒に働きたいかどうか」という一点が重要になる。
私たちが取り入れるべき行動はいくつかある。
フラットなネットワーク社会に移行すると、専門性はクラウドソーシングなどで容易に調達できる。
そのため、業界内に閉じこもらず、
複数の業界を橋渡しするハイブリッド人材となり、
新しい価値を生み出すことをめざすべきだ。
また、これからの活路は、「地方」と「海外」に見出せるだろう。
イノベーションはつねに、現実と摩擦の起こる「周辺」から生じるからだ。
新たなコミュニティを、地域やバーチャルに形成するのもよい。
ほかにもグローバルで戦う企業で働く、自分で海外に出て行く、といった道も考えられる。
仕事において、労働が貢献に変われば、
カリスマやスターなどの個人が活躍する時代ではなくなる。
関係やつながりが重視される社会では、
個人と個人の「間」にあるものこそが大切になるからだ。
社会におけるコミュニケーションからお金が駆逐されると、
貨幣経済の単一的な価値観という重石がはずれて、
人間の個性がいっそう花ひらく。
すでに教育現場でも、「お受験」偏重から、シュタイナー教育やモンテッソーリ教育へと関心が移っている。
これからは、自分の個性、すなわち天才性を、微細なレベルで理解するよう心がけるべきである。
そうした天才性を伸ばしたり、
活かしたりする環境を選び、
天才性を人と分かち合っていくことが大切だ。
個人を忘れて、
個性を見出す。
個性と個性を組み合わせるということをコミュニティの中で行えば、大きな貢献が生まれる。
「一日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法」
山口揚平 著
プレジデント社
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