「大穴」表現集

あの銃弾は私自身にとっては人間解放への第一歩であった。射たれたのは不注意であったからだ。不注意だったのは仕事に嫌気がさしていたからである。

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九月の冷たい夜を、次第に、力が抜けて行くのを感じながら床の上に横たわっていた。すぐそばの電話で助けを求められないのがいまいましかった。

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「馬というのは本当は非常にデリケートな動物なのだ。ハレーは騎手の体だ。大障害の騎手の体だ。前にやっていたのだ。ショック・アブソーバーのような体をしている.....そうでないと、競争のさいの骨折や怪我に耐えられないのだ」

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私は、彼がなにかを待っている、という気がしてならなかった。私がやめるのを待っているのでないとすると、あとは見当がつかなかった。

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私たち二人は、熱情、歓喜、意見の相違、怒り、そしてついに爆発という経験をへたのだ。

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時がゆっくりと過ぎて行くのがいらだたしかった。

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なんにもほしくない。そういう人間なのだ。それが私の悪いところだ。自分がこの世でいちばん望んだものを手に入れ、それを取り返しのつかない形で失ってしまったのだ。そのほかにはなにもほしくなるようなものがない。

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ブランデイを注いでくれた。私のほうへグラスを持ち上げて、うまそうに一口飲んだ。心中の興奮を抑えているのが表情にうかがえた。底知れぬ目に鋭い光が浮かんだ。私はブランデイを飲みながら、彼はなにを企んでいるのであろうと興味をそそられた。

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私たち二人は餌にくいついた。それならば、釣り糸をグイッと引いてみて、釣り人の決意のほどを試してみよう。


「人というものは、食事の席では口がほぐれるものだ.....気楽に話すし、相手の人物を知るのに都合がいい」

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ほんのわずか、安堵の色を見せた。自制された、緻密な人である。微笑を向けると、私が芝居をしていたことに気づいた。

「悪いやつだ」と言った。

彼の場合は賛辞なのである。

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かつて見たレースのことをたのしそうに話していた。本当の愛好者だ。こういう人たちの支持を失うと競馬はつぶれてしまう。

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「耳と手は変えることができないんだよ。試みてもむだなんだ。耳と手に専念したら、まずまちがうことはない」

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ヴィオラはさっぱり理解できないまま、もっともらしくうなずいていた。もったいぶった出任せの言葉は利口な彼女の頭上をふわふわと通り越しただけで、彼女は全然気にするようすはなかった。しかしそのような派手な物の言い方は、非常に大がかりな詐欺をやる手だてのように、私は思えた。まず相手に深い感銘を与えるという常套手段である。

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私は皿の底に固まっているスープの残りを見つめたまま、石のように座って、くいしばったあごの筋肉をゆるめ、混乱した自分の感情をたてなおそうと努力した。

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しかし、その彼女がつぎに口にした言葉は、弱い者いじめの好きな根性を露呈した。

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同じものがそこに感じられた。愉悦である。不快感に身がちぢむ思いがした。興味のあるなしにかかわらず、気味の悪い、なぶるようなうす笑いを身に浴びてじっと座っているのは我慢がならなかった。私は目を落として顔をそむけた。

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「強い相手を過小評価した場合は、不利な立場に立つことになる。相手を極度に過小評価し、全然問題にするにたらぬと思い込んでいるときは、防備を怠り、負けることは必定だ」一息ついて、続けた。「したがって、敵に自分がとるにたらぬ相手であると思いこませることは、賢明な結果だ。私は今夜、きみのためにそれをやっていたのだ」

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「自分の理解の及ばぬことをあざけるのは、貧民窟の人間の考え方の特徴なのだ」

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一般に結婚がどこでうまくいかなくなったかというのは困難である。表向きの理由が本当の理由ではないからだ。

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感情の起伏の激しい小男というのはいつでも漫画の主人公にされる。

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非合法すれすれの線で金儲けをしている口のうまいイカサマ師ではなく、大がかりな悪事を企む、強力で危険な人物なのだ。

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私は憤怒と苦痛と屈辱.....その他あらゆる感情に体を震わせていた。

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いろいろな精神的肉体的苦痛が収まるのを待った。

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伝説はつねに真実よりふくれあがる。

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もはや手遅れになりそうな時まで決断を遅延し、決断した後も気が変わるおそれがあった。

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圧力下における反応、嫌いなことはなにか、よく忘れるのはなにか、といった点を掘り下げた。

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まるで乾いたスポンジのように貪欲に吸収していたのよ。

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「みんな大なり小なり悪党ですよ」

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(空港にて)二人で座って、どこかへ出かける連中を羨望の目で眺めていた。みんな希望にみちた顔をしている。苦労はすべて地上に残しておいて飛んで行けると思っているらしい。幻覚なのだ、と皮肉な気持ちで見ていた。苦労はいっしょに飛んで行くのだ。気持ちが宙にういているだけだ...

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そのなんでもない言葉に、長年の希望のない淋しさがむきだしに感じられた。

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私の表情に拒みを読みとると、彼女の心の中の光も消えていくようだった。陽気さが消え失せて、うちひしがれた、よりどころのない表情に戻った。解放はなくなったのだ。

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私はごく幼少の頃から同情を示されるのを避けた。不要であったし、信用しなかった。同情をうけると人間が甘くなってしまう。

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学校で泣くこともあるし、恥辱から回復できないような打撃をうけることもある。だから、貧困も嘲笑も、あるいは成人してからは妻に去られることも、職業を諦めねばならぬことも、肩をすぼめてやりすごし、本心は人には見えない胸の中にしまっておかなけらばならないのだ。ばかげているようだが、致し方ない。

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競馬場全般にわたる放任状態はゾッとするほどであった。

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孤独な人に見離された姿が、十一月初めの冷たい午後、ちょうど降り始めた塩気まじりの霧雨の中にかすんで、惨めな印象をさらに深めていた。

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どのような会社でも、永久に赤字を続けていくことはできない。

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事態がさらに悪化することは明らかである。破産は目前である。

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「思いどおり、というのが絶対にありえないのです。問題の半ばはその点なんです。誰かがいい案を出すと、誰かが必ずそれをつぶしてしまう。結局はなにもしない。ということに終わってしまうんです」

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「よくわかる」ゆっくりと同意した。「しかし...」

「そうです。その、”しかし“ なんです。結局はその “しかし” に落ち着くのです。“しかし” 、シーベリィの当事者はそれをやる意志がない」

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彼が無益な悪事への第一歩を踏み出していなければ、人のいいおとなしい、害のない人間でいられたのに、と、思った。

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身をさくような激しい罪の意識を感じないですんだはずだ。

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レベレイションがはやあしにうつった。自分がどこにいるのか、よくわかっているのだ。観衆が居らず、歓呼が聞こえなくても、覚えのある走路に上がって興奮している。耳がピッと前に向いて立ち、足どりも軽快であった。今年十四歳で、引退してから一年になるが、四歳馬の若々しさであった。

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乗り手の感情が馬にのりうつるのは万人の認める事実である。レベレイションは私と同じようなはしゃいだ気分で走っていた。

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レベレイションが私の下で倒れるのを感じ、目をあけていながら一物も見えないまま本能的に鞍から跳んだ。芝の上にドシンと落ちると、眼前が白光から暗黒、さらに灰色となり、視力が戻った。

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レベレイションより先に私が立ち上がった。まだ手綱を手にしていた。馬がもがきながら立ち上がって、うろたえながらよろめいた。足を調べるために、いやがるのを前に引いて歩かせた。怪我なく無事であるのを確認して安堵した。

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警備についている時の注意事項の第一は、自分の飲食物を持参して、人のすすめる物は口にしないことだ。

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私の運はそこで尽きた。

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私は腫れ始めた目の隅から彼を見た。

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このような状況のもとでは、冷静な思考力のある敵は好ましくない。

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的を得た説明を聞いていて、目前の事態に劣らずゆううつになった。

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「骨折したままで走ったレースは何度くらいあった?」

答えなかった。答えようにも多すぎて思い出せなかった。

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「鎖骨、肋骨、腕、馬主や調教師に見つからないと思えば、それくらいの骨折ならみんな乗るんだ」

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これから受ける苦痛を考えれば、射たれる危険を冒すほうがましではないかと考えてみた。

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この場を生きながらえることができたら、探偵商売はもうご免だと思った。とんだヘマをしたものだ。

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多少は手加減をするかと思ったが、力いっぱい降り下ろした。その一撃で私のはかない希望は消え去った。

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閉じた目の裏が霧をとおして輝く太陽のように、黄色から灰色にかわり、体中から汗が吹き出た。ひどい。ひどすぎる。これ以上は耐えられない。

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苦しむか喋るか。古代から今日まで続いているジレンマである。

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私は自分の手がないことが淋しかった。その点は否定できない。不具の状態にありはしたが、それでも使い途はあった。そのような自分の体の重要な一部分を欠くということは、なんとしても心の平静を乱すものなのであろう。

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罪を犯した人間は、自分の罪が誰の目にも明らかだという強迫観念を常に抱いているものだ。自分の罪をあばく可能性のあるものについて極度に神経質になる。


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