利己的な遺伝子【bookノートA】

これまで、生物は種や集団の利益になる行動をとるように進化してきたと広く信じられてきた。

というのも、個体の生存という観点から生物の行動を観察すると、利他的としかいいようがない行動や習慣がいくつも確認されてきたためである。

だが、実際に利益を受け取っているのは、種でも集団でもなく、厳密には個体でもない――遺伝子こそが利益を受け取っている張本人なのだ。

こう考えると、見える風景はガラリと変わってくる。

生物は利他的に見える行動をとることもあるが、それは遺伝子の生存という意味で有利だからだ。

今日まで生き延びていることに成功した遺伝子は、例外なく利己主義であり、ゆえに自然淘汰を生き延びてきたのだといえる。

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遺伝子の始まりは、生命の誕生以前の地球に遡る。

あるとき偶然、自らのコピーを作れるという驚くべき特性を備えた分子が登場した。

これを「自己複製子」と呼ぼう。

自己複製子はあっという間に広がっていったが、コピーをする段階で誤りが起きることがあった。

しかし、そのエラーこそが、のちの生命の進化につながった。

誤ったコピーは広まっていき、地球はいくつかのタイプの自己複製子で満たされることになった。

数を増やしていった自己複製子の特徴は大きく3つに分けられる。

1つ目の特徴は分解のされにくさ、つまり長生きをすることである。

長期間にわたって分解されなければ、その分だけ自らのコピーを作ることができるからだ。

2つ目の特徴はそれよりも重要で、素早くコピーする能力である。

コピーが速ければ速いほど、当然それだけ数を増やすことができる。

3つ目の特徴は、コピーの正確性である、数を増やすためには、エラーが少なければ少ないほど望ましい。

このように、寿命の長さ、多産性、複製の正確さを備えた分子が、日増しに増えていったと考えられる。

とはいえ、自己複製子が無限に増えていくことは不可能であった。

地球の大きさは限られており、自己複製子を構成する分子も、かなりの速度で使い果たされていったからである。

これにより、自己複製子の間で「生存競争」といえるものが生まれた。

そして、その過程で生き残った自己複製子は、ライバルから身を守るための容れ物である「生存機械」を築きあげたものたちであった。

最初の生存機械は、保護用の外皮の域を出なかったと想像されるが、新しいライバルが次々と現れるなか、生存機械はいっそう大きく、手のこんだものとなっていった。

かつての自己複製子は、いまや遺伝子という名前で呼ばれている。

そして、私たちこそがその生存機械なのである。

生存機械はもともと、原始のスープの中で自由に利用できる有機分子を食物にしていたが、それがすっかり使い果たされてしまったことで、別のやり方を採用することが余儀なくされた。

現在、植物と呼ばれている生存機械の多くは、自らが直接日光をつかって単純な分子から複雑な分子をつくりはじめ、原子スープの合成過程をスピーディに再現するという戦略をとった。

一方、動物と呼ばれる生存機械は、植物を食べるか他の動物を食べることで、植物の成果を横取りする方法を「発見」した。

そして、この2類の生存機械は、効率を高めるべく、さらに巧妙な仕組みを発達させ、たえず環境に適応するための新たな生活方法を開発していった。

その結果、今日の動植物の多様性が生まれたのである。

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生物、すなわち生存機械は、何十万もの遺伝子を含んだ「乗り物」のようなものだ。

個々の遺伝子の寿命は短く、せいぜい数十カ月といったところだが、遺伝子は自らをコピーすることができるため、1億年でも生き続けることできる。

その意味で、遺伝子は不死身に近い。

6遺伝子はたえず他の遺伝子と出会ったり離れたりを繰り返しながら、私たちのような生存機械を乗り捨てて広がっていく。

とはいえ、多くの新しい遺伝子は、最初の世代すらまっとうすることはできない。

現在生き残っている遺伝子は、すぐれた生存機械をつくるのがうまかったものだ。

自分が住み着いている体を、ライバルの遺伝子よりも長生きさせることで、結果として数を増やしたのである。

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遺伝子は、自分自身のコピーに対しては、他の体にいる場合であっても援助を惜しまない。

これは個体レベルで見れば利他主義的な振る舞いに見えるかもしれないが、遺伝子レベルで見れば、単なる利己主義の産物であるといえる。

親の子に対する利他主義がこれほど多い理由も、このことから説明できる。

子どもがその親の持つそれぞれの遺伝子を受け継ぐ可能性は、きっかり50%もあるからだ。

また、親と子は当然、同じ割合だけ遺伝子を共有しているわけだが、親のほうがより利他的にふるまうのは、平均余命が異なるためである。

平均余命が高ければ、繁殖の期待値も高いし、将来自己の遺伝子に役立つ能力も高いというわけだ。

さらに、「確実度」という指数も考慮にいれるべきである。

親子関係は遺伝的に、必ずしも兄弟姉妹関係より近いというわけではない。

しかし、誰が自分の兄弟姉妹かというより、誰が自分の子どもかということのほうが、判別がつきやすい。

自然界で親の子に対する利他主義が、兄弟姉妹による利他主義にくらべて明らかに頻繁なのも、この指数が大きく影響を及ぼしているといえる。

自分と相手の近縁度、自分自身の平均余命との比較、そして確実度を考慮にいれたうえで、それぞれの個体は、相手が「投資」に値するかどうかを判断している。

当然、個体が意識的にそういった複雑な計算をしているわけではない。

だが、意識下では、この計算が働いており、その結果が行動としてあらわれているのである。

人が自らの親族関係に対して、高い関心を持っているのもこのためだろう。

一方、野生動物の場合も、肉体的に自分に似ている個体に対して利他的にふるまう傾向を持つことで、たとえ相手との血縁関係がわからなくても、間接的に自分の身内に有利な行動をとれるようふるまっていると考えられる。

特に、あまり動きまわらない種や、グループで動きまわる種の場合、近くにいる個体が自分とかなり近縁な個体である公算が大きい。

サルの群れやクジラの群れで利他的行動が数多く報告されているのも、こういった理由があるからであろう。

自分の近縁個体が誰なのか、クジラに正確に判別する手段があるかどうかはわからない。

しかし、群れの中の個体であれば近縁である公算が高いため、利他的な行動をとることが遺伝子にとって利益につながるといえる。

同様に、野生のイルカが溺れかかっている人間を助けるという話も、これで説明できる。

イルカに刻まれているのは「水面近くで息ができずにもがきまわっている細長い物体」を助けよというルールなのだ。

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遺伝子は、自分のコピーを増やすという、あたかも利己的な「目的」を持っているかのようにふるまう。

しかし、遺伝子は人を完全に支配できるわけではない。

遺伝子が私たちを、あやつり人形のように直接操ることができない理由の1つは、時間の「ズレ」にある。

遺伝子はタンパク質合成を制御するという強大な力を持っているが、その速度はとてつもなく遅く、例えば胚をつくるのには何カ月もかかってしまう。

一方、生物のとる行動は一般的にとても速い。

そのため、遺伝子にできるのは、予測できるかぎりの不慮の出来事に対処するための規則を前もってプログラムしておくこと、そしてひとりでに学ぶ能力を生物に組み込むことだけである。

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人の持つ文化の一部も、遺伝子にとっては不都合になることがある。

文化的伝達は、基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうるという意味で、遺伝的伝達とよく似ている。

遺伝子の特性は自己複製にあるわけだが、それは自己複製を行う実体が、たまたま遺伝子だったというだけで、理論上は、他のものがその実体になることもありえる。

人間の文化は、まさにその実体の1つと考えられる。これを「ミーム」(meme)と名付けたい。


旋律や観念、キャッチフレーズ、ファッション、壺の作り方、アーチの建造方法――これらはいずれもミームの例である。

遺伝子が繁殖する際は、精子や卵子を担体とするが、ミームの繁殖は、模倣と呼ばれる過程を媒介にし、脳から脳へと渡り歩く。

ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造とみなされるべきだ。

なぜなら、ミームは現実に、私たちの行動や肉体に影響を与えるからである。

例えば、「死後の生命への信仰」というミームが、世界中の人々の行動や肉体に与えた影響は計り知れない。

ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化しあうが、対立することもある。

例えば、独身主義の習慣は、遺伝によって伝わったものとは考えにくい。

蟻などの社会性昆虫にみられるような非常に特殊な状況を除けば、独身主義を発現させる遺伝子は、失敗することが運命づけられているからだ。

しかし、ミームという観点から見ると、独身主義は成功する可能性がある。

独身主義というミームは、聖職者という生存機械を通じて、まだ人生の目標を決めていない子どもたちに伝えられていき、繁栄していく。

たとえそれが、それが遺伝子の「目的」に反していても、である。

さらに、私たちの持つ、想像力を駆使して将来の事態を先取り(シミュレート)する能力にも、自己複製子が引き起こす利己的な暴挙を阻止する力がある。

なぜなら利己的存在たる遺伝子やミームには、そのような先を見通す力はないからだ。

純粋で私欲のない利他主義が、これまで自然界に存在した試しはない。

しかし、自分たちの持つ利己的な性質を認め、寛大さと利他主義を学ぶことは十分可能である。

私たちは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた存在かもしれないが、私たちには、自己複製子という「創造者」にはむかうことができる能力が備わっている。

私たちの遺伝子は、利己的にふるまうよう指図してくるが、それに一生従うよう強制されるわけではないのである。

「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス 著
紀伊国屋書店

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