「○○といえば、私」
note投稿者や、私の周りの方々には、「自身の強み」があり、それを武器に社会での競争に打ち勝っているんだと思います。
「文章力と言えば、私」
「ポップなイラストと言えば、私」
「SNSマーケティングと言えば、私」
「コーディングと言えば、私」
「書評と言えば、私」
「感性をカタチにすると言えば、私」
「○○」には、さまざまな個性や特技、知識や経験が入ります。
私には、これといったモノがありません。逆に、何かの「スペシャリスト」や「エキスパート」、はたまた「寝食忘れるくらい好きなこと」がある方は、とても強い。
なぜなら、それらは他人から見ても「自信」に繋がるモノであり、「信念」を感じるモノだからです。
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複合的な能力をお持ちの方も、実に多いです。
「英語と交渉術と言えば、私」
「感性を投影した作品作りと言えば、私」
「情報収集とデータ解析と言えば、私」
「通信技術とセキュリティと言えば、私」
「料理と経営と言えば、私」
これらの組み合わせも無限にある気がしますが、私にはピンとくるものがありません。
私のような人間は、これらの能力をお持ちの方にすれば、「顔も名もない人間」なんだと思います。取るに足らない、替えのきく人間。
…こう書くと、悲観的な印象があるかもしれませんが、そんなことはないですよ(^-^)。事実なだけです。
これって、私だけが感じていることでしょうか?おそらくは違います。
誰もが…私から見たら高い能力を持っている方々の中にも、このような感情をお持ちの方はいるのかもしれません。
皆さんに問いたいと思います。「この感情を抱いていることは、悪いことですか?」
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上記の感情は「劣等感」、「羨望」、「ないものねだり」みたいなものでしょうか。…字面はネガティブな印象が強いですね(笑)。
この感情を抱くこととは別に、こういった「感情に押し流される」ことが、私としては、よろしくない行為だと思っています。
「他人と比べるな」とか「あなたにも誰にも負けないモノがある」というのは、何と言いますか、「強者の理論」っぽく感じてしまいます。
なぜなら、劣等感を感じ、羨望のまなざしで他人を見つめる、といった経験をしたことのある人間は、そんな言葉は既に何万と自分に言い聞かせているはずだからです。
ひねくれているのかもしれませんが、それらの言葉は響かないのです(笑)。
「勝ち負け」という視点はあってもいいと思います。その「感情に押し流される」ことがなければ。「負けず嫌い」も立派な才能ですから。
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これまでは「自身の強みがある人」と「そうでない人」という話を書いてきました。
ですが、一つのキーワードから、違う見方もできるという話もしたいと思います。
能力があっても、強みがあっても、「感情に押し流される」と「そうでない人」になってしまう可能性もあるのでは?ということです。
結局のところ、「○○と言えば、私」という感情は、絶対的なものではなく、ちょっとしたきっかけ(感情など)で崩れてしまう「砂の城」のようなものだと、私は思っています。
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私としては、これが人間の人生の恐ろしいところであり、面白いところであると思っています。
一生涯を勝ち続けて終える人間は、おそらくはいません。
そして、自信がないまま生涯を閉じる人間もいないと思っていますし、信じています。
今、自信がない、前に進めないというのは、単に「心の中の砂の城」が崩れているだけなのです。
そこに費やした時間や労力の全てが無に帰したような錯覚を覚えるかもしれませんが、違うのです。
何度でも、創ればいいんです。崩れると分かっていても、思ったより不格好でも、揺れる心の波に負けないように、何度でも。
そして、何度も積み上げる中で、いつか、手にした砂の一粒一粒が、実は自分の唯一無二の個性だと気づく日まで、諦めないことが、生きることだと思いませんか?
「自分という人間を積み上げてきた日々、それが私」
私もまだまだ、道半ば。「何もない」というのは「新たな城を積み上げる機会を得た」ということだと思っています。
…できれば、一生完成することなく終えたいとも思う、今日この頃(笑)。
なんの話でしたっけ?
ということで、今回の投稿は以上です。
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