見出し画像

多数派・少数派という考え方

民主主義社会において、多数派の意見は採用されやすいですよね。

多くの人は、幼少期より何らかの民主的解決を経験していると思います。

兄弟姉妹が多い方は、ご自宅でのテレビのチャンネル戦争であったり、学校では各委員会の選出であったり…。

もしかしたら、数の暴力の被害に遭い、つらい経験をされた方もいるのかもしれません。

子供時代は、誰もが純粋ゆえに、ときに残酷な選択を平気で行ったりします。

いじめなどはその典型で、ちょっとした人との相違点を見つけては、攻撃材料としたところを目撃したことのある方もいることでしょう。

一方で、社会人となると少し様子が変わってきます。

少数派に希少価値をつけるようになります。

成功者や偉人というのは、その存在が少数だからこそ取り上げられ、崇拝の対象となっていることでしょう。

そう考えると、多数派・少数派という考え方って、いったい何なのでしょう?

ということで、今回は「数の価値」について、少し考えて行こうと思います。

最後までお付き合いいただけると幸いです。

ビジネス・オフィス・ラップトップ・統計・データ

ーーーーーーーーーー

数量という揺るぎない明瞭な事実を、人は根拠としてあらゆる場面で行使します。

それは、自らの正当性を示す材料であり、心の拠り所でもあると思います。

「みんなが同じように考えている」

「私だけが違う道を進んだ」

多数派・少数派の各意見を上手に取り込み、私たちは自分の存在を定義づけているのではないでしょうか?

しかし、それは各事象を切り取っただけに過ぎず、人間の本質は、唯一無二の存在です。

数に対して過敏なほどに反応するのは、私たちが社会性という特性をもって、今日まで生き抜いてきた名残なのかもしれません。

人々・群衆・街・街路・交通・生活

ーーーーーーーーーー

昨今では、あらゆる場面において少数派の意見を重視するといった風潮があります。

…風潮という言葉は適切ではないかもしれませんが、数が全てを決めるわけではないと、改めて認識されてきているということなんだと思います。

ですが、民主主義社会で少数派の意見を汲み上げようとすることは、軸が定まらなかったり、意思決定のスピードが遅れたりと、必ずしも良い面だけではないことが視て取れます。

少し乱暴な意見ですが、日本の経済力の低下の原因は、このような多様性を認める副次的な効果がマイナスに働いてしまっていると考えることができるかもしれません。

現在、GDP(国内総生産)の割合が高い国はアメリカや中国です。

両国の共通点は、成長意欲と愛国心ではないかと私は考えています。

もっといい暮らしをしたい、もっと栄誉ある立場に就きたい…。

突き詰めれば個人の欲求の高さに依存するのかもしれませんが、国家が個人を上手にコントロールすることで、国力に変換しているように感じます。

そして、個人は公正公平な評価を国に求め、結果として貧富の差は日本では考えられないほどの差となっています。

日本の経済成長力は芳しくありません。

しかしそれは、多数派にも少数派にも流されない平等の精神があるからこそなのかもしれません。

人々・群衆・ビーチ・砂浜・夕日

ーーーーーーーーーー

私は平等という考えがあまり好きではありません。

【平等】 
かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。
(デジタル大辞泉より)
【差別】
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。
(デジタル大辞泉より)

「差別」という言葉を、忌むべき表現と考える人は、今の社会では多数派でしょう。

ですが、「あるものと別のあるものとの間に認められる違い」に着目すれば、それは不当性を示唆するものではなく、個性の別称として捉えることも出来るのではないでしょうか?

つまり、「差別」とは少数派を容認する概念でもあるということです。

そう考えると、差別撤廃とは少数派を否定する言葉に感じませんか?

人々・群衆・ハト・通行人・街・生活

ーーーーーーーーーー

【拡大解釈】
法の語句、文章の意味適用の範囲を、通常よりも広げて解釈すること。また、法に限らず一般にもいう。
(精選版 日本国語大辞典より)

日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」という条文があります。

これにより、日本では公平公正よりも平等の精神を重んじる傾向があります。

しかし、これは「法の下に平等」なのであり、人と人の間においては適用されないと考えることも出来ます。

この「人」とは個人だけでなく法人格も例外ではなく、だからこそ競争の原理のもと、「フェア=公正公平」な経済が在るのだと思います。

上記に「拡大解釈」の引用文を添えたのは、「差別」や「平等」といった言葉の一側面に縛られることなく、唯一無二の個人としての思想を一人ひとりが持つとともに、自由な思考で公平公正な社会を考えることが理想なのではないかと、私などは考えているからです。

多数派・少数派という考え方は、確かに社会においてなくてはならないものです。

ですが、最終的には個人としてどう在るのか、そこが重要であり、その結果として意志を貫いた先に成功や他者の称賛があるのであり、その過程が困難であるがゆえに、終着点に辿り着く人物が少数であること。

社会において少数派が希少とされるのは、このような背景があるからこそではないでしょうか?

ーーーーーーーーーー

なんだか上手にまとまりませんでしたが、多数派・少数派のどちらでもない、あなた個人の意思を見つめるきっかけになればと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?