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ふぞろいな心はまだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ




ミュージシャン 小山田圭吾さんの、東京オリンピック開会式辞任騒動(もうおととしになるのか…)では、特別にずーっと好きだった(一般的には)誰も知らない音楽家が、あれよあれよとテレビや新聞の大ニュースとなってしまった驚きと、問題となった「いじめ」というのが、その元になった「雑誌記事」とは大枠で言って関係がない(と、思っている)そのことが理解できる層は、とてもじゃないが限られているという絶望感。それが突然、同時にやってきた!自分的にはそういう珍事(とあえて言う)だった。

ただの口から出任せを記録されてしまった。


そんなことを理由に、国民的なバッシング、個人攻撃が起きてしまった。


それこそがとんでもないイジメだと、
普通はわからない、わかれない現象が。


国内初の?
「インフォデミック大事件」
が記録された重要な本

『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)を、片岡大右さんが書いてくれなかったら、おそらく未だに事の経緯が多くの人に知られず(少なくとも読書人の多くにも)、その議論の本質について、整理すらなされずにいただろう。


片岡大右さんの最新刊⚡️
小沢健二の項がある~♪


小山田さんこそが究極の「理不尽な暴力」に晒されたわけなんだ。

ツイッターでもそういう思い、つまり実際のいじめを受けたことがある人こそが、それとこれとは関係がないって言ってくれてて、一般的にはちょっと特殊と映るはずの認識を、共有できたことが救いだった。

わたしらが若かった80年代後半~90年代前半頃の露悪、つまりあえての不謹慎を皮肉や逆説をほどこしたふうに、でも結局はブラックの、ユーモアなんつって笑う…みたいな結局は悪趣味に過ぎなかった一時期のムーブを肯定するつもりなんて全くは無くて。

毒舌?とかを言い訳に、わかっていてヒドイことを言っていたし、人がいうそれに対して苦笑いや愛想笑いもした。そんなお追従すら、言ってみれば社会的な作法だった。

ところで、多分みんなが身に覚えのある、記録に残らない天文学的な数の、今だったら、いや今でも昔でも(今でも無くなったわけでもないだろう)その場で消えていくクソな会話やヤバ発言についてなんかは、どう問われるのだろう(問われないのだろう)か?ましてや記録されたものだって、当時のアングラな雑誌、どころか一般の大衆雑誌とかを掘れば、小山田さんのどころじゃないエグいやつがいくらでも出てくるのですよ。

間違えないでほしいのは、
だからいいだろうと言ってるのではなく、
そういうのを洗いざらいして、

「一億総ザンゲ」しましょうよ?

少なくともそこを無かったことにせず、
総括する議論をちゃんとしなければと思う。

今となっては、というか今でもそういうまだまだ渦中の時代を生きるわたしたち、どちらにせよ「愛と暴力」について考えることは一生背負っていかなければと思っている。

山田太一さんが亡くなってしまい、YouTubeに上がっていた『ふぞろいの林檎たち』の第1回目を40年ぶりくらいに観た(この間に消されてしまったが😓)

あの時代の若者の、ネアカとネクラの話でもあり、今でも有り有りな本音とタテマエの話でもあり、理不尽につきまとう「性欲」の話だった。

いま見るとあまりにも露骨だったりするけれど、それがあっての「人間について」の名作だった。


小学6年の頃、近くにできたイトーヨーカドーのワゴンに、当時ヒットしてた本宮ひろ志さんの『俺の空』という漫画が置いてあって(Hなシーンもある)それを立ち読みしてたら隣におじさんが近づいてきてヘンなこと言われた。

中学の時には、山手線でレイザーラモンみたいな恰好の青年に痴漢されたし、池袋にあった日勝地下や新宿の昭和館(映画館)ではそういう場とは知らずに安い名画座だから観に行って、隣の席に代わるがわるやってくる誰か(暗くてわからない)に気づくようになって行くのを止めてしまった(ハッテン場という概念を知らなかったころの話)

ここでは、だからどうと言うのではなく。

あぁ、そういうものなんだと後から少し知った。

生きる悲しみ。

どちらにせよ「強者と弱者」について考えることは一生背負っていかなければと思っている。


木下医師は、
ロカボの話も聞きたくない!
って言ってんですよ~
データ、学会…


糖尿病の専門医という方々、コロナ禍で公衆衛生のために、みんなのために闘ってくれたマジメなお医者さん…そういう人たちでも、「糖質制限は問題あり!」とするんだけど…

寛解しました~


わたしの経験(データ)をしつこくも何度でも貼るのは、わたしごときが例外なわけはなく、多くの人が糖質制限によって、同じような結果を出してるに違いないって思うから。

医師の先生方は、教科書通りにマジメに学んで、ガイドラインに沿って真摯に治療してきた結果により、得ている認識であると想像される。悪いわけがない。

わたしは何もよく知らぬまま、このまま寿命が縮むのはイヤ~てな感じでそこは珍しくがんばりをみせて…3ヶ月で寛解した!(とここではあえて言う。処方されてたジャヌビアも要らなくなったから)

いろいろと、問題の「ズレ」に気づいてしまった。

気づいてしまったけど、同時にこの類いの思いは、絶望的に流通できない時代になってしまったことの絶望を3題、語ってみましたよ。

だがそれを言ったらかなりの確率で、あなた何を言ってるのと責められてしまう。悲しみ。

それでもだけど、一発アウトが必要なのと同じように、メチャ入り組んだ説明がないとダメなこともある(良い一発アウト!、悪い一発アウト!)

やっぱりいつだってぼくらは端っこを歩いてきた。

陰謀論の定義は置くとして、陰謀論てことばの陰謀性(インボイスみたい😂)についても考える必要が出てきたんじゃないかな。だって陰謀論じゃない側(仮)にだって誰かの陰謀が入ってないわけじゃないからね。

それは言ってる人そのものの中にある、無意識的な陰謀だったりするかもよ。




定年というゴールが見えてきて、
俄然、元気が出てきた。
(といっても次なる方へ…だけど)

前に、子供(20歳まで)、若者(40歳まで)
   大人(60歳まで)、老人(80歳まで)として、
それぞれ明確に、20年ごとに区切る案を言ったけど、
それは、終わりがあるってとこがミソなんですよ!

終わらせたいなら終わりをみずから創ろうよ!

人間は、誰かにとっての誰かであるわけだから、それだけで、ただいるだけで誰かの幸せに貢献しているんだよな。若いときはあんまり分からなかったけど…

なんとか!


今回も、読んでいただき、
誠にありがとうございました。

本格的に寒くなってきて、
ウォーキングに出るのも億劫ですが、
無理はせずに体の声をよく聴いて、
できる範囲で頑張りましょう!

大好きな『バーティドレス』貼って終ります
(エミリオさんのお借りしました🙇)



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