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「てよだわ言葉の誕生」(ラブソングの危機を考える7)

 スポティファイでニューリリースモノをパラパラ聴いていたらShiggy Jr.の新譜「KICK UP!! E.P.」が良かった。私は「ポップス」という概念を「下品さと上品さがギリギリでバランスをとっている状態」のことだと思っているが、この新譜にはそのギリギリの緊張感がある。とても楽しんで聴いた。 

 ところでスポティファイに提案があるのだが、こういう「これは」という作品にであえた時に、たとえば100円でもアーティストにドネーション(寄付)できるような仕組みを作ることはできないのだろうか? ネットスラングに「振り込めない詐欺」という言い方があるが(ニコニコ動画のコメント等に使われる「アップされた出来のいい動画やパフォーマンスに対して、対価を支払いたいのに仕組み上それができない」というの褒め言葉)、定額制とはいえ、なんとも思わなかった作品と感動した作品が同じ「1回再生」なのはおかしいと思うのだ。また、この100円とは「楽曲」とか「原盤」に対して、といったムズカシイものではなく、「感動をくれてありがとう」的なものでそのままアーティストに還元されてほしい性質のものだ。
 無論、「そんなに感動したのならアマゾンでCDを購入すれば良いではないか」という反論もありえる。しかし、2000円とか3000円というような高価な気持ちでもないのである。しかも2018年にCDはあまり欲しくないのである。100円ぐらいの気持ちなのだ。この100円とか数百円というのはShiggy Jr.のような「消費されてナンボ」のJ-POPに本来つけられるべき値段という気もする。また、いちいちアマゾンで購入して翌日以降に家に配達される、というのも気分が萎えるもので、「感動した!」→「ドネーションボタン、ポチッ!」ぐらいのスピード感が本来のポップミュージックにおけるコミュニケーションなのではないかという気がする。(携帯キャリア決済と連動すれば決済にかかるストレスもないはずだ)このドネーションボタンの素晴らしいところは「感動したからといって必ずしもドネーションしなくても良い」というところだ。「気分」でいいのである。
 きっと、「音楽産業にとってプラスとはならない」という反論が予想される。しかし、アーティストにとってプラスならそれでいい気もするのだ。とくにニューリリースものに関しては、ドネーションはあるべきという気がするのだがどうだろう。サブスクサービス関係者の方、ご一考を。


 ところで前回の続き、CGPと転倒CGPの問題である。CGPを掘り下げるにあたって、まず大前提となる「女ことば」から考えなくてはならない。「だわ」「かしら」「のよ」といった女ことばとはどこからきたのか?
 すでに言語学の領域では次のようなことが定説となっている。言語学者、中村桃子「女ことばと日本語」(岩波新書)によれば、女言葉の起源としてよく挙げられるのは14世紀あたりに宮中の女官たち使用されていた「女房詞」や、江戸時代の遊郭で使われるようになった「遊女ことば」が源流であると言われている。だが、これらは現代の「だわ」「のよ」というようなものではなく、せいぜい接頭語の「お」ぐらいだったようで、これなら男女兼用であり、女性専用とはいえない。ただし、女はどう振る舞うべきか、という「女性のマナー本」的な言説はすでに鎌倉時代からあったということだ。その代表的なものに「女訓書」がある。鎌倉から江戸、明治大正まで広く普及したもので、内容はベタベタな「女性のマナーとは」である。その中心は四行といって、婦徳(女として固く守らねばならない諸徳)、婦言(女が日常で使うべき言葉遣い)、婦容(女にふさわしい身だしなみ)、婦巧(書道、和歌、裁縫など婦人が身につける技芸や教養)という女性にとって大切とされる四つの行いのこと。
 これはもともと地位の高い女性にのみ、読まれていたものだが江戸時代になると一般層にも普及していったという。いかにも儒教思想由来の男尊女卑の考え方で書かれたものとわかる。ただし、この教えが封建的な家制度を支えていたのだとも言える。


 CGP研究のうえで興味深いのは「婦言」、女性の言葉遣いに規範を置いているというところである。江戸時代初期の女訓書には「自由に笑ったり、悪口やうわさ話をすることはよくない、口はわざわいのもとだ」と戒めてある。元禄に入ると、当時の生活百科事典とも呼べる「重宝記」が登場する。ここにも「女重宝記」というのがあって、ここにはおしゃべりの禁止、女はあいまいで柔らかに言うのが良い、漢語を使うことの禁止などが示されている。明治に入ってもこの封建的な考えは変わらない。あの福沢諭吉ですら「婦人は静かにして奥ゆかしきこそ、頼母しきけれ」(女大学評論・新女大学)と文明開化らしくないことを言っている。
 ひとことで言うと、明治以前の日本社会は「女はベラベラ喋らず、黙ってニコニコしていればよい」という教育を何百年にもわたってしてきたと言える。元禄以降、女訓書は多数、現れたが時を下るにしたがって新たな傾向を見せはじめる。これまで「~はいけない、~をするな」という表現だったものが具体的な「女の使うべき語を示す」というトレンドが生まれたのである。それらは女の使うべき言葉を「女中詞」「大和言葉」「女言葉」「女中言葉づかひ」「女中大和言葉」と呼んで女ことばからもっとも遠い「漢語」と対比させていたようだ。おそらくこのあたりで「女ことば」が生成される土壌ができつつあったと思われる。
 中村が強調しているのは「女ことば」がこうしてできました、ということではなくて、「女ことば」とは女自身ではなく、女訓書のような「女ことば」について語る「言説」によって形成された、という点である。この本(女ことばと日本語)をつらぬく著者のメッセージとは、「女ことば」とは、日本の伝統文化でも自然に発生してのでもない、政治的支配において「女ことば」言説を流布するのがもっとも効果的だった、ということである。


 もっとも有効な支配の形態は、特定の集団の利益となる考え方(イデオロギー)がその政治性を隠蔽した形で「常識」「知識」「当たり前のこと」として流布した結果、支配される人が自分から進んでその考え方に従わざるを得なくなることだとは、フーコーをはじめ、権力について考察する多くの思想家・歴史哲学者も指摘しています。(前掲書)

その、中村の見立てに従えば、ナゼ「女ことば」を使用する歌手の多くが「男尊女卑」的、「儒教的な封建主義」を生きているような人物なのかが理解できる。(たかじんや長渕や松山千春など)たかじん「やっぱ好きやねん」の女性など、「女訓書」をそのまま歌謡化したような人物と言える。
 ところでCGPで使用される「てよ」「だわ」「のよ」は女訓書が挙げる女房詞とは違う。明治あたりで「女学生ことば」が成立していくなかで登場したものである。私はこの、女学生の言葉をCGPに採用していった、という事実の方が興味深い。いったい、「てよ」「だわ」はどこから来たか?
 まず、女学生の登場を見てみる。明治5年(1872年)にはじまった学制によってすべての国民が教育を受けることになり、日本の女性ははじめて学生になった。ただし、この時点では「男子学生」と区別された「女子学生」は存在していない。この時の女子学生は男子同様、袴を着用し、下駄を履き、腕まくりをして洋書を掲げ往来する、という格好で、当然世間から大バッシングを受けることになる。そして学制から7年後、明治12年に明治政府は「教学要旨」を発布し、儒教に基づく道徳教育の強化を打ち出した。翌、13年には高等学校から男女別学が制度化され14年には女子は裁縫と家政が必須科目となりこの間に女子の袴の着用も禁止された。
 この10年足らずの出来事が私には実に興味深い。一度、欧米的な男女平等の民主教育スタートさせたとたん、「女子が男子にたいにふるまうなんてなっとらん」とやっぱり女訓書や儒教的封建主義に戻って女は女らしくしてもらいましょう、とアタフタ方針を切り替えたことが、結果、現代にいたるまで小説、マンガやアニメのような、またポルノメディア全般のサブカルチャーに強い影響力を植えつける「女学生」を生み出すことになったと考えられるからだ。
 本田和子は「女学生の系譜・彩食される明治」(青弓社ルネサンス)では「女学生」のイメージは言葉づかいが大きな役割を果たしたと指摘している。ここでは女学生の言葉の成立を、
1、女子が男子の言葉を使うことを批判する
2、小説家による「てよだわ言葉」の使用
3、「てよだわ言葉」を否定する
4、「てよだわ言葉」のセクシュアリティ化
という4つの過程に分けている。1、はすでに見た通りだが、2、とはどういうことか? 「教学要旨」は「女子は女子らしくしろ」と、いったん欧米に振れかけた女子をまた、儒教の逆方向にゆり戻す、という方向転換であった。この間、たった数年だが女子は男子のような書生言葉を使用した。教学要旨以降は、女訓書的な女房詞を使うことが奨励された。

 このとき、小説において、書生言葉を使う「悪い女子学生」と丁寧な言葉を使う「良い女子学生」に類型化する手法が発明された。当時の雑誌小説「梅香女史の伝」に、両方の女子学生が登場する。悪いほうは「~君」「たまえ」「僕ら」といった言葉遣いで漢語も多用する。一方、良い女子学生は「まことにありがとうございました」的な言葉遣いで類型化に成功している。この累計のデータベースは現在にも生きていて、たとえば「ちびまる子ちゃん」においても良い女子学生のたまちゃんが丁寧な「女言葉」使いであるのに対して、よからぬことを考えガチなまる子は「~だよ」などと男子的な言葉遣いなのである。
 ではCGP問題の核心、「てよだわのよ」はどこで登場したか。明治12、3ごろ一部の女子学生が使用しはじめたのが最初と中村は考えている。中村の考えでは、「女学生自身が、学校の押し付けたものとは違う自分たちのアイデンティティを作り出そうとした試みだったのではないか」と見ている。つまり、この時期、女子たちは「男女は平等であるべき」という教育を受け始めたと思ったら「やっぱり女は女、だまってニコニコしてろ」という矛盾した環境に置かれたのである。この矛盾へのささやかな抵抗だったのでは、ということである。ここで中村はこれらの女子業界のみで使われる言葉を「てよだわ言葉」と名づける。そしてこの言葉づかいが「女子学生の創造的言語活動」であったと高く評価する。
 私にとってもこの「てよだわ言葉」の誕生は興味深い。これが中村の言う通り女子コミュニティ内でのみ通用する初めての「女子学生の創造的言語活動」だとしたら、のちのギャル語であるとか、腐女子言葉などの原点とも言えるからである。
 さらに面白いのは「ハイカラな若い女子学生のあいだでのみ、通用する符牒」のようなものだった「てよだわ言葉」が、やがて封建主義丸出しの長渕やたかじんの封建的「日本の男」コンテンツに結局回収されてしまう、という事実である。
 若い女子の表象であった「てよだわ」は、やがて女々しい女の失恋や悲恋を歌う時の類型を示すツールになる。どんなプロセスを経たのか。見ていこう。つづく。

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