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ラブソングの危機を考える4

 しかし、日本人ほどエロに強いこだわりをしめす民族もいないのではないか。日本にはどんな辺鄙な地方にも「セックスを主目的とした宿泊施設」ラブホテルが偏在しているし、アダルトビデオのジャンルもこれほど多岐にわたって存在するのは日本だけだろう。「女性が男性客に性的なサービスを供する」風俗も日本にはさまざまなジャンルが存在する。また、クラブ、ラウンジ、キャバクラといったような女性が男性客の隣に座り、酌をする文化、というのも欧米には存在しないのではないか? 日本のヤクザ映画には頻繁に登場するその手の飲食店だが、たとえばゴッドファーザーのシリーズや他のギャング映画などでは見かけたことがない。この「女性のホステス(芸者、コンパニオンなど)が旦那衆に、未熟な女を演じて楽しませる」という文化は江戸時代以前から連綿と続く吉原などの遊里の文化をルーツに持つものと考えられる。欧米における「ポルノ」と日本の「エロ」の違いがここにある。 たとえば洋楽で「エロ」を目的とした楽曲、というのがすぐとは思いつかない。ランナウェイズのような数少ない例が思いつくが、ポルノまがいの音楽、というのはちょっと思いつかない。ところが日本の場合、ちょっと目を離すとエロ歌謡や、ねェ小唄や伊勢佐木町ブルースなどがエロ規制の目を盗むように現れる。つまり、日本とは先進国のなかでもズバ抜けてスケベな国民性の国なのである。


 寺山修司は「起こらなかったとこともまた、歴史である」と嘯いた。エロ歌謡は戦前には当局によって検閲、規制されたが、戦後はそのままGHQのプレスコードに引き継がれた。1955年にレコ倫が発足し、これがエロ規制をさらに引き継いだ。もし、このような規制がなければ、日本の流行歌の歴史はもっとエロ歌謡に侵食されていたのではないだろうか。ストリップまがいの衣装の歌手が喘ぎ声のような歌を歌番組で披露したり、スクール水着姿の少女のアイドルグループが卑猥な歌を歌う、といったような文化が形成されていたと考えられる。もともと民謡や俗曲には乾いたエロを歌ったものが多かったわけで歌謡曲とエロは親和性が高いものなのだ。エロ歌謡が規制された代わりにエロはカストリ雑誌→エロ本、ビニ本文化、ストリップ興業→ポルノ映画、といった目で楽しむ方向にシフトしていった、ということではないかと思う。厳しい規制によって歌謡曲は男女の関係を歌う際、「意識の高い、近代的な恋愛」を歌うラブソングに収斂されてゆく。

 戦後、リンゴの唄、笠置シヅ子のブギ、美空ひばりのブギ、古賀メロディーのトンコ節、ヤットン節などの復興の流行歌の時期を経て、「アイラブユー」と小畑実がささやくように歌った「星影の小径」(1950年)が登場する。ジャズ風のこの曲は「戦後のラブソング」の雛形なのではないかと思う。洋楽風のサウンドに「アイラブユー」「アカシア」といったバタくさいワードが混ざった歌詞を朗々と歌う、というラブソングの手法はのちのユーミンさんや小田和正や布施明、尾崎紀世彦、ドリカムの吉田美和、槇原敬之、Mr.Childrenの桜井和寿に至るラブソングの基礎を築いたと考えられる。

 筆者が「意識高いラブソング」と呼んでいる一連の感覚を社会学者見田宗介は「慕情」と呼んでいる。「慕情」とは、


 慕情を定義するならば、「自己と対等以上のものとして意識された他者にたいする、距離感をともなう愛情」であろう。(中略)慕情はつねに、物理的・心理的な距離によって直接的な発露をはばまれていいる愛情である。(近代日本の心情の歴史)

そして日本(アジア)特有の「遊里」における旦那衆の恋愛は「恋愛自体と主体のあいだに距離が保たれ、そのことによって恋愛が「あそび」となる」と、エロ歌謡の源流の遊里の恋愛は別物、と定義している。
 私見では日本のメインストリームの流行歌はつねに「慕情」と「あそび」が拮抗しあって進展している、と見ている。これは前回の宇多田「First Love」とモー娘「LOVEマシーン」との関係であるし、また、槇原やミスチルが意識の高い「慕情」を競っている90年代半ばに「ズルい女」のような「あそび」を思わせる恋愛を描いたシャ乱Qとの関係に見られる。
 わたしは日本のラブソング史を考えるうえで、「慕情」は重要であると考えているが、その実、ほとんど興味を失っている。実際、この稿でユーミンや小田和正やドリカムやミスチルの歌詞をとりあげていかに優れているかといった話はすでに議論が出尽くしていると思うのだ。それより「意識の低い、「あそび」の感覚から生まれた、品のない、しかも規制をかいくぐった」歌たちこそ論じるべきだと考えている。それは「男と女のラブゲーム」「3年目の浮気」のようなスナック定番ソングであり、「ズルい女」であり、「LOVEマシーン」であり、DJ OZMA「アゲ♂アゲ♂EVERY騎士」であり、ゴールデンボンバー「女々しくて」である。これらの楽曲は宴会ソングなどとカテゴライズされがちな、意識の低い、とされる曲たちである。

 しかしこれらが一発屋であっても瞬間風速的に世間に浸透したという事実は無視できないものである。また、これらの曲は、見事に日本の音楽ジャーナリズムから無視されている、という点も興味深いものがある。おそらくこれからもユーミンさんやミスチルなどは定期的に音楽ジャーナリズムに振り返られることになる。ただし、DJ OZMAやシャ乱Qやヒロシ&キーボーが振り返られることはないはずだ。しかし、彼らは日本の歌謡のもう一つの想像力、エロ民謡、エロ歌謡、エロ宴会ソングの歴史の後継にあたる存在である。そしてつねに「なかったことにされる」という点も含めて大きな水脈なのである。そしてこれらの楽曲は確かに、人々を励まし、楽しませてきたのである。この見田の言うところの「あそび」の恋愛について掘り下げてみよう。


 「あそび」の恋の歌謡史。てがかりとして日本の歌謡曲特有の歌唱スタイル。「男性が女性になりきって歌う歌」に着目してみたい。
 ぴんからトリオ「女のみち」や小林旭「昔の名前ででています」、内山田洋とクールファイブ「そして神戸」やしきたかじん「やっぱ好きやねん」のような「男性が女性になりきって歌う」タイプの歌の歴史が日本の歌謡曲にはある。これらでうたわれる恋愛に共通しているのは驚くほど「慕情」のような意識の高さに欠ける、ということだ。大体、主人公の女性は男に騙されているし、不幸を一身に背負っているところがある。これを演歌、または演歌にルーツを持つニューミュージック(たかじんなど)特有のスタイル、と決め付けてはいけない。若者向け、あるいは洋楽風とされている楽曲にもこの手法は散見されるからだ。


 長渕剛「巡恋歌」、松山千春「恋」、チャゲ&飛鳥「ひとり咲き」、徳永英明「レイニーブルー」、山下達郎「エンドレス・ゲーム」、「甘く危険な香り」、EXILE「Ti Amo」、ポルノグラフィティ「サウダージ」・・・
これらもまた、男性が女性になりきる歌なのである。つまり、女性なりきり曲とは決して演歌やムード歌謡特有の慣行などではなく、若者もポップスにおいても使用されている。わたしたちは特に不自然に思うこともなく、これらの曲を受け入れているが、欧米のポピュラーミュージックでこのような「女性になりきる」歌、というのはまず、みられないものである。海外にこのような事例がないか、という調査がある。


 女性の歌った歌でも男性が歌う例は「My Funny Valentine」ほか多くあるし、男性の歌った歌を女性が歌う例はもっとある。ビリー・ホリデイが愛唱した「Crazy Calls Me」も本来はsheだがheと置き換えて歌っている。だが内容は「君があの山を動かしてくれというなら、動かしてみせるとも」てな調子でどう見ても男の歌だが、ホリデイ以外の歌手も歌っているし、数年前にはリンダ・ロンシュタットも吹き込んでいる。これはひとえに英語表現には男女の差が少ないということからきているのだが、そこへいくと日本語の表現には男女間に大きな差があるので、かなり事情が違ってくる。「ジャズ詩大全1」村尾陸男(中央アート出版)


 また、言語学の領域においても1978年に「英語圏のポピュラーソングに日本の演歌のようなジェンダー交差の事例がないか」という調査が行われている。寿岳章子「日本語と女」(岩波新書)によれば、


 もうひとつのことをつけ加えておこう。今まで述べてきたことを、私は1978年に私の講座の研究生であった森玲子氏に、英語のこの種のうたについて調査してもらった「。その報告によれば、いささかのレトリックの差や、キリスト教的なイメージが強かったりするというような違いはあるにしても、本質的にそう日本との違いは一見ないとのことである。しかし、それにもかかわらず決定的な差があると、その報告書は続けていた。それは女のしていることは男もしているということである。日本のように、女というのが卓立しないのである。SheをHeに変えるだけで男のうたに簡単に変わると、報告書は告げている。あるいはまた、少数ではあるが、男についてゆかない自立性のある女も描かれている由。また、あたかもキイ・ワードのようにtigetherとshareがよく使われて、英語のうたでもしばしばうたわれる「愛」が、日本のそれとはいささか趣を異にして、より平等で同志的な男女の愛を示唆し、日本のそれよりは、いささか主体性を女に持たせているようだと報告されている。(前掲書「英語のうたでは」)

 つまり、英語圏では主語を変えれば、そのままそのジェンダーの歌になる、ということのようだ。やはりなりきり歌謡は日本の歌謡曲特有の文化と考えていいようだ。こういった楽曲はわたしたちが「ミズっぽい」と呼ぶ感覚との強い親和性を感じる。また、音楽ジャーナリズムとの断絶も窺える。ただし、根強い支持があるという事実もある。このようななりきり歌謡は、わたしには「エロが規制された」結果、規制をかいくぐって現れた手法のように感じる。次回はこの源流をさぐるところからはじめてみたい。

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