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「お座敷小唄」が自然主義なら「女心の唄」は実存主義なのだ(ラブソングの危機を考える11)

 「お座敷小唄」はのちの戦後的CGP歌謡の礎となった。「お座敷~」が提示した要素として3つの重要ポイントがある。


①作者不詳ソングであったこと(プロの作家の手によらなかった)
②ドドンパのような最新のビートを備えていたこと
③儒教由来の古いタイプの女がいること(つまり芸者の女が男性に媚びていること)


①に関して・・・これは現在のロック、ポップの受容においてもある感覚で、どうも日本の大衆歌謡の聞き手は「プロがマーケティングして企画された作品をありがたく受け取る」という消費行動に抵抗があるようなのだ。それはメジャーレーベルで大資本が投下されたプロダクトより、多少音質やパフォーマンスに難があろうともインディーズバンドのほうが音楽に対して純粋だ、といった純朴な価値観と同質のものである。「お座敷~」は作者不詳というデータが受けた面がある。とはいえ、古くから遊里で歌われてきたというだけあって、歌詞の端々まで遊里的思想が行き届いている。長年にわたって遊びの場で歌われるなかで洗練されていったと窺われる歌詞で、不要な言葉や描写は見当たらない。この歌詞の完成度はむしろ、プロの作詞家が一人で仕上げる、というより全国の遊里で書き換えられ、鍛えられていったという蓄積のたまものであろう。なにか、レヴィ・ストロースの神話の研究のような話だが、プロ以上に完成度の高い歌詞が「反社会的な場」「無名の人々」によって育て上げられた、というドラマが大衆のインディーズ心を打った、という側面はあったはずだ。


②に関して・・・ここで注意しておかなければならないのは「ドドンパ」は海外から輸入したビートでもなんでもない、ということである。つまり、エルビス・プレスリーのロックンロールやペレス・プラートのマンボのような実体のあるものとは違うということである。

 ドドンパとはなにか。この1960年代前半にはこのビートのヒット曲がいくつか存在する。まず渡辺マリ「東京ドドンパ娘」('61)のヒット、これを受けて田代みどり「可愛いドドンパ娘」、万代陽子「ドドンパ・ハイティーン」などフォロワーが登場する。美空ひばりも「ひばりのドドンパ」を発表する。男性では三橋美智也「星屑の町」('62)、北原謙二「若い二人」('64)などがある。現代においても氷川きよし「きよしのドドンパ」('04)がある。それにしてもドドンパとはなにか。輪島祐介「踊る昭和歌謡」(NHK出版新書)ではドドンパ話に1章を費やしている。


ドドンパは謎に満ちている。1960年(昭和35年)に「国産ラテン・リズム」として忽然と現れたドドンパは、翌1961年にかけてブームを巻き起こし、気になる爪痕をあちこちに残しながらやがてその出現と同様、忽然と消えていった。(前掲書)


このなかでいくつかの資料からドドンパの正体を明かそうとする。フィリピンのバンドが日本に持ち込んだ説、マンボ、チャチャチャの変型リズムの説、都々逸とルンバをかけあわせたもの説など。ただし、輪島の見解ではいずれもそれが「日本産」であるかどうかについては微妙にぼやかされている、という。つまりドドンパが同時期に海外で流行していたという事実はなかったかもしれない、ということだ。というかたぶんない。あったとすればそれはマンボの変型であり、オフ・ビート・チャチャと呼ばれるものだ。つまり、ドドンパとは架空の「海外で流行っているリズム」なのである。このドドンパの流行を承けて、60年台前半にはパチャンガ、スクスクなどの得体のしれないリズムが登場する。
 このCGP論にとって重要なのは、「ドドンパ」が実際の海外の流行とは別に、この和製洋風リズムが、日本人の感覚やリズム感に絶妙にフィットしたことである。つまり「ドドンパ」は「ハウス」や「ジャングル」や「2ステップ」のような「実際の海外の最新のビート」を輸入したものではない、ということ。考えてみればわかることだが、本物の海外の最新ビートを日本に輸入し、そのまま歌謡曲に移植したところで売れるわけはないのである。「お座敷~」はその「最近流行の海外風」風味のさじ加減が絶妙なのである。これはのちのCGPをはじめとする水商売系パーティーチューン楽曲に律儀に受け継がれることになる。典型的なのはやはり「LOVEマシーン」で、よく知られるようにこの曲のビートとリフのメロディーはショッキング・ブルーの「ヴィーナス」('69)なのだが、なんとなく今風の洋楽のように聞こえてしまう、というマジックがある。CGPではたかじん「やっぱ好きやねん」、達郎「エンドレス・ゲーム」のAOR風味、EXILEの「Ti Amo」は2000年代初頭のUSのR&B、ヒップホップによく見られたラテン、ブラジリアンテイストのヒップホップ・トラックである。(おそらく2000年代前半のネプチューンズ、ジャストブレイズ等のトラックを参考にしているのではないか)ジェロ「海雪」でもしっかりリズムにブレイクビーツを取り入れている。一昔前のヒップホップ感なのだが、CGPにとって絶妙なタイム感といえる。
このように「ちょっとダサい海外」という距離の詰め方、が「お座敷~」以降のヒットパターンとなる。


③古い芸者のような女がいる・・・たった一人の男のために、身を捧げ恋をまっとうする女。儒教由来の「芸者のような女」、古臭いタイプの女像。このSNSだのAIだのいった現代でも不思議な生命力で生き続ける(日本だけで)女性像である。そして彼女たちはもう使われなくなった「てよ」「だわ」「かしら」といった女言葉を使用し、それを誰もそんなに不思議に思わないのである。
 前回、「お座敷~」からバーブ佐竹「女心の唄」のあいだに歴史的転換点がある、と論じた。「お座敷~」で芸者を演じたのは松尾和子だが、「女心の唄」ではパンチパーマのいかにも水商売風といった風体の男性が女性になりきって歌う。このバーブで始まったCGPの様式は現代まで受け継がれることになる。では「お座敷~」と「女心の唄」ではなにが違うのか?

 今一度、歌詞を紐解いてみよう。まず、芸者の女性は客の男性を「好きで好きで大好き」だが、「妻という字にゃ勝てやせぬ」とはじめから倫理的であきらめモードである。そして「お金も着物もいらないわ」と健気である。ところが男性客は「ボクがしばらく来ないからといってヤケ酒など飲むでないよ」などと芸者のビジネストークを真に受け、説教すらはじめるのだ。現代的視点から見るとこの男、どうかしているとしか思えないが、これが古きよき日本の旦那衆というものだったのかもしれない。「お座敷~」→「女心~」問題とはここなのか? ちょっと常識を働かせれば、この芸者のふるまいは職業上のトークに過ぎないとわかる。オリンピック開催すら控えた近代国家の日本人の耳にはこの営業トークはしらじらしく聞こえたはずだ。つまり「お座敷~」の芸者の言い分は形式的、タテマエ的なものだ。しかし、バーブの歌う、男に去られた女の独白は多少、過剰な面もあるが、「内面の独白」という新しいコンセプトを提示している。「お座敷~」は男性と女性のやりとりそのままの世界、いわば自然主義文学であったといえるが「女心~」以降のCGPは内面の世界、いわば実存主義を打ち出したといえる。つまり、「お座敷~」の芸者から「芸者」という外面を剥がし、内面を描いたものが「女心~」だったといえるだろう。そして「お座敷~」になくて「女心~」にあるもの。そしてオリンピックを経て、名実ともに近代化を果たした日本人にとってリアリティがあったのはやはり「女心~」の実存の世界だったのである。


・人間回帰、歌謡ルネッサンス運動としてのCGP


 CGP歌謡とは「お座敷小唄」から旦那衆を除外し、芸者の内面にスポットを当てたもの、と考えられる。そしてその内面の表現はその後、どこまでも過剰さを増していくことになる。小林旭「昔の名前ででています」では水商売の女が「あなた」に見つけてもらえるよう、全国の繁華街を転々と流浪する。「海雪」に至っては、女がかなわぬ恋を儚み、「あなた」を追って雪降る日本海の岸壁から身を投げるというのだから穏やかではない。しかしEXILE「Ti Amo」では不倫の関係にある女性が内面の苦しさを独白する。(日曜日の夜はベッドが広い→相手がカタギの仕事の男性だから、キスをするたび目を閉じるのは明日を見たくないから→ウィークデイになると会えなくなるから)というような「妻という字にゃ勝てやせぬ」のCGPの原点に立ち返るかのようなCGPのルネッサンス性を表出している。
 それでもまだわからないのは近代以降、歌い手をパンチパーマや暴力団風の男性が担った理由だ。(そして時代が下って「ヒップホップ風」まで行くと逆にCGPは歌われなくなる理由)
 結局のところ、これが1964年にクロスジェンダー現象が起こった決定的理由だ、といえるような文献や証拠を見つけることはできなかった。しかし、ここまでの論考でいくつかの推測が可能である。クロスジェンダー現象とは「歌謡曲の浪曲化」だったのではないか、ということだ。つまり、義太夫・浪花節と呼ばれる戦前から続く語り物の演芸の手法がどういうわけかこの近代化を達成したばかりの日本の風土の歌謡曲に取り込まれ、受けれられたと考えられるのだ。「お座敷~」→「女心~」の転換点で起こったのは「お座敷~」なかった浪曲の要素をCGPにはじめて盛り込んだ、という現象であろう。浪曲の歴史は意外と浅く、明治以降である。浪曲師(語り手)と曲師(三味線伴奏者)のコンビでパフォーマンスされるのが基本のスタイルである。演題は多岐にわたるが悲恋物と呼ばれる恋愛ドラマも存在する。当然、男と女が登場するわけだが演者はそのどちらも演じることになる。浪曲というジャンルはもともと放浪芸であることから浪曲師はどこかカタギでない雰囲気を持つ人物であることが多く、「胴声」いわゆるダミ声で唸ることを作法とする。つまり、どこかカタギでない人物が、この世のものとは思えない悪声で女々しい女の独白を代弁する、という「語り部のように第三者の立場で女性の内面を語る作法」がもともとここに存在していたのである。浪曲や義太夫は悲恋物語や義理人情について語る「語り芸」だが、ダミ声には理由がある。
 正岡容「定本・日本浪曲史」(岩波書店)によれば浪曲、つまり浪花節のルーツは説経節とデロレン祭文と阿呆陀羅経(チョボクレ)といわれているが、その祖先には宗教音楽としての説教と祭文が挙げられるということだ。(注1)また、放浪芸の研究家、小沢昭一も「日本のフシの源流は祝詞や声明に発している」という。


日本のフシの源流をさかのぼると祝詞や声明に発しているという。つまり神仏の霊的、呪術的な世界だ。(中略)放浪の芸能は、すべて祝う芸と祓う芸に分けられるが、浪花節はあきらかに祓う芸能の経脈をひいているのだ。浪花節特有のあのダミ声も、もとはといえば、悪魔に対抗しての、毒をもって毒を制する声だったのであろう。(小沢昭一「放浪芸雑録」白水社)(注2)


 もともと浪曲の内容は仇討ちであるとか女性蔑視の人身売買といったような反社会的なものが多く、結果、日本社会の近代化の過程でしょっちゅう批判の目にさらされることになる。古くは夏目漱石や尾崎紅葉、永井荷風、泉鏡花のような文学者が浪花節嫌いを広言している。とくに戦後、欧米型の民主主義が導入されると「農地改革の時代に封建的な」とか「古い義理人情の論理から脱却せねば」、「そもそも話が不合理で辻褄があっていない」といった批判を文化人連中から受けることになる。
 そうして洋楽風の流行歌であるとか西欧式の合理的なストーリーの小説が新しい文化として受け入れられていく。私は小沢昭一の言う、「毒をもって毒を制する声」が浪曲特有のダミ声(胴声)なのだ、という説を非常に興味深く思う。つまり、浪曲の話とは不合理で女性蔑視で家父長的で、反民主主義という「反近代」をもともと抱えたものだが、そのような理不尽なドラマに無条件に共感するコードが私のような浪曲を知らない世代にもどういうわけか埋め込まれている。たとえば忠臣蔵など、野蛮なうえに非合理的な話だとは思うのだが、嫌いではないのである。年末などにうっかり長時間忠臣蔵ドラマなどに観いってしまい、討ち入りの場面で快哉を叫ぶ、というようなことが私でもある。しかし浪花節が語るストーリー(かなわぬ恋の相手を追って海に身投げ、というような)とは文化人の手にかかるとたちまち非難され、馬鹿にされ、踏みつけにされてしまう。このようなナイーブな物語を悪しき近代主義者から守るためには、語り手自身が悪に(つまり暴力性を宿す)ならなくてはならない。→この作法が戦後のCGP、バーブ佐竹以降、宮史朗や殿キンのような「暴力団関係者のような風体で悪声で歌う様式」に受け継がれていったと考えられる。また、長渕剛が80年代後半から悪声の歌手へと変貌していったのもこの大きな歌謡史の水脈を意識してのことではないだろうか。そういえば上記のような「不合理な恋愛観や前時代的な人間観を持つ主人公(小川英二)が近代主義に染まったやくざ組織と対立し、ラスト見事に成敗する」という浪曲のようなストーリーの長渕主演ドラマ「とんぼ」はアウトロー側の歌謡曲がどのような論理で構築されているかを端的に説明している。しかし、まさか長渕が世代的に清水次郎長伝のような浪曲を聴いて育ったとは考えられないし、「とんぼ」以前のキャリアを考えてもここに行き着いたのは不思議である。
 CGPやアウトロー歌謡は現代の浪曲である。または浪曲のモダン化である。と考えてみる。それではホンモノの浪曲の立場はどうなるのか?
 無論、長渕に限らずバーブ佐竹だって浪曲出身の歌手ではない。菅原洋一も森進一も城卓矢もクールファイブも浪曲出身ではない。そしてEXILEも。この60年代といえばまだ浪曲出身の歌手、村田英雄や三波春夫などが現役だったわけだが彼らは歌謡浪曲を歌うことはあってもCGP歌謡を歌うことはなかった。彼らはバーブや菅原洋一などをどう見ていたのか。また、宮史朗や殿キン、悪声以降の長渕などをどう見ていたか? おそらく「浪曲のマガイモノ」という風に見ていたのではないか。しかしこの「マガイモノ」の部分にこそ浪曲の本質がある。
 ともあれ、CGP歌謡、アウトロー歌謡は高度成長期に忽然と現れ、その後の歌謡曲の歴史にしぶとく侵食していったが、決して偶然に出現したのではなく、日本の伝統的な放浪芸の延長として現れたと考えられる。そういえばCGPの主人公はよく流浪する。「昔の名前~」も「港町ブルース」も「海雪」も放浪の歌である。その放浪は単に旅を続ける、というよりも60年代以降、急速に進んだ「近代化」や「近代社会」の息苦しさからの逃避であったのではないかと思えてくる。そう考えると一見、暴力的、悪趣味に見えるCGPだがむしろ人間回帰、歌謡ルネッサンスとでも言うべき運動だったのではないかと思えてくる。
 ところで「浪曲は夏目漱石や泉鏡花などの進歩的な文化人に嫌悪された」という構図と「ミュージックマガジンやロッキングオンなどの進歩的とされる音楽雑誌が長渕やシャ乱Qを取り上げない話」とは相似形に見える。次回は長渕剛を通して、歌謡曲における浪曲と洋楽の攻防にについて考えてみよう。つづく。


注1・・・浪花節近世の母胎を説経節とデロレン祭文と阿呆陀羅経(チョボクレ)とするならば、そのまた祖先には宗教音楽時代の説教と祭文とが挙げられる。その説教、祭文のさらにまた源流には人皇二十九代欽明天皇の御宇に、はるばる仏典、仏像を携えて渡来した百済王の使者とともに伝わった中国の京調(きょちん)、朝鮮の打鈴(だいしん)で、いずれも時に説となり、時に会話となる構成で、内容もまた浄瑠璃風の物語であるという。(中略)説教も祭文も、はじめは人の死を弔う経文の一種だったので打鈴の原型にちかいものは今日も但馬、出雲地方に残り、先年鳥取県倉田村円通寺有志によってNHKから放送された古民謡台黒舞など、まったくの祭文調で、同時に明治末期の浪曲にもじつに似ていた。(正岡容著、大西信行 編「定本・日本浪曲史」岩波書店)

注2・・・小沢昭一は浪花節のダミ声について理由を大きく2つ挙げている。1つは世間という悪に対抗する「毒をもって毒を制する」ためのものだった、というもの。もう一つは「音響設備の整っていなかった時代に、広い空間に伝達を徹底させるために」声を響かせようとした結果、あのようなダミ声になったという。これは大道で物を売る香具師の声も同質である。浪曲師はみな、魅力的なダミ声を得ようと声をつぶす努力をしたとある。長渕もまた、悪声化の過程で強い酒やルゴール液でうがいをするなどの方法で喉を痛めつけ、声を変化させていったという。(R&R News Maker1992.1.No.40インタビュー)奇妙なことに長渕は自身が生まれるずっと以前の明治期の浪曲師や香具師といった放浪の芸能の人々と同じ行動をおこしていたのだ。

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