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「証拠」という視点で考える

ごきげんよう。

私は今、『入門・アーカイブズの世界―記憶と記録を未来にー』(記録管理学会・日本アーカイブズ学会共編、日外アソシエーツ、2006年)を読んでいるが、
本編が始まる前、安藤正人先生の「編集にあたって」の段階から非常に考えさせられる内容になっている。
そこには、『記録のちから』と題して、2つの新聞記事が取り上げられている。
1つ目は「「私は日本人」訴え続けー両親と中国へ 帰国求め21年―」(2004年6月22日、朝日新聞東京版夕刊)という記事で、2つ目は「父の国―フィリピン残留日本人2世―」(2005年6月21日、朝日新聞東京版夕刊))という記事である。
2つともアジア太平洋戦争による海外残留孤児や残留日本人2世に関するもので、彼らは日本政府に帰国申請をしているが、「戸籍などの資料が見つからない」「資料が開示されない」という理由で未だに日本人として認定されない、逆に資料や記録が残っていたため日本人であることを証明できたという内容である。
つまり何が言いたいかというと、「記録が見つかるかどうかによって結果が大きく分かれてしまっている」ということだ。
この記事における、海外残留孤児や日本人2世の人たちにとって、記録は「歴史資料」でも「文化資源」でもない。自分が日本人であるという、あるいは日本人遺児であるという、まさに自己の存在(アイデンティティ)を証明するためのかけがえのない「証拠」である。
私は、アーカイブズを考える際、公文書を残すとなった時に、真っ先に思い浮かべるのは「歴史資料として重要だから」という発想だと思う。
しかし、そうであるばかりではない。
むしろ、多様な記録や情報が混在する現代社会では自己の存在(アイデンティティ)を証明すること、いや、「人権を守る」という極めて大切な意義につながってくる。
大学で歴史学を専攻している私はどうしても上記のように偏ってしまった考え方になってしまうこともあるので、これからアーキビストを目指す上で気を付けながら学んでいきたいと思う。
記録や公文書には政治性や権力性が備わっているが、
それよりも、もっと大事なものが備わっている。
それは、「人の存在を証明し、市民の権利や財産を守る力」である。
いま世界の記録管理やアーカイブズの分野では記録やアーカイブズが持つ力は、「人の存在を証明し、市民の権利や財産を守る力」=「証拠」としての力だといわれている。
近年、日本では個人情報の流出などが問題視されている。
解決策として記録(文書)を廃棄するということが挙がっているが、日本の記録保存システム(日本のアーカイブズ制度)を見直し、記録(アーカイブズ)が持つ力『記録のちから』の本質に迫っていかなければならない。

本日も最後までお付き合い頂き、誠にありがとう。

ごきげんよう。

さようなら。

お世話になっている方々へ
いつもお世話になっております!
全ての活動を通して、私はいろんな方々に支えられており、応援して頂いているということを実感しております!
本当にありがとうございます!
これからも、ご縁を大切にし、感謝の心を忘れずに邁進していきますので、何卒よろしくお願いいたします!

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