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野口原の歴史

ごきげんよう。

本日は野口原の歴史をまとめてみました。

① 野口原墓地
明治44年(1911)11月に町会が決議し、野口原の土地を購入し開墾して共同墓地にしたのが始まり。現在の市営墓地のような形になったのは大正4年(1915)のこと。
拡張が頻繁に行われ、昭和45年(1970)には総面積が24393㎡(野球フィールド2個分)になった。
★大正3年「別府町史」によると、明治44年(1911)11月に町会が決議し、野口原の土地を購入し開墾して共同墓地にし、その中央に火葬場を設置した。
 昭和8年「別府市誌」によると、その火葬場が新設されたのは明治45年(1912)のこと。その後、大正4年と12年にも増築した。看守人の住宅や薪の格納所を含めて4つの棟が立っていた。今日新聞『懐かしの別府ものがたり』より。

② 野口原競馬場
昭和8年『別府市誌』によると…
「別府市野口原の競馬は、明治二十八年、野口の酒造家井上礼蔵等が、単に来遊浴客慰安の一手段として、娯楽的に開催したるを嚆矢とす」とあり、明治時代から競馬が行われていたことが分かる。

★市誌が作られた当時はいろいろな施設があり、「現在の競馬場は(中略)構内に投票場、馬見場、審判場、事務員控室、景品券引換諸、厩舎、受付所等七棟の建築物を有す」と書かれている。今日新聞『懐かしの別府ものがたり』

「馬頭観世音菩薩」
諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされ一般的に馬の無病息災の守り神
として信仰されている。

「橋本大八翁 頌徳碑」
私財を投じて競馬場を作った橋本大八を称える碑文である。
北埋め立て地(花菱ホテルなどがある北浜旅館街のこと)経営のため、大正7年に別府に来た橋本(熊本藩出身、東京在住)は、別府に年間百万人もの入湯客が来るのに
娯楽施設がないと残念がり、私財を投じて競馬場を作ったとして、その功績を称えている。
大正8年9月建立とあり、武田綾太郎町長の名前などが記されている。
※競馬場の始まりは明治28年だが、別府が急激に発展し入湯客が増えた大正期に、
本格的に整備された。
※吉辰(きっしん)めでたい日
※謹書(きんしょ)謹んで書くこと、
※頌徳碑(しょうとくひ)偉業を成し遂げた人の碑。

1924年(大13) 別府尚馬会により、競馬が開催される。
1939年(昭14) 軍馬資源保護法公布により鍛練馬競走場へと変わる。
1946年(昭21) 地方競馬としての別府競馬が再開される。
1948年(昭23) 新競馬法公布により大分県の県営競馬として別府競馬が開催される。
1950年(昭25) 亀川東町に市営競輪場が開設され、競輪ブームに観客の関心が向く。
1950年(昭25) 観客数の減少により、この年の開催が最終となる。
1954年(昭29) 別府競馬場は廃止に至る。

競馬場跡地は一時アメリカの駐留軍が滞在し、戦後進駐軍が撤退すると今度は自衛隊が管理する土地になり、その後、別府市に払い下げられ現在の総合運動場となった。

③ 野口原五輪塔群
五輪塔とは?
仏塔の一種。密教で説く五大を方(地),円(水),三角(火),半円(風),宝珠(空)で象徴したもの。各面に五大を示すサンスクリット(古代インド語)を刻む。
鎌倉時代以後,墓の一般形式とされ,鎌倉市にある源頼朝の墓は代表例。
昭和56年(1981)1月29日、野口原の朝見・北石垣線の歩道工事の調査中に発見された。

◆造立年代
南北朝(1336~1392)
今からおよそ600年以上前。

出土した数は25基
・五大(地、水、火、風、空)が完全な形にそろったもの。
・水にあたる部分に仏を表す梵字を墨書したもの。
・塔身の上部の中に火葬した人骨の破片が多数発見され、
大きいもので高さが約80センチある。
・原型のまま出土したのは1基のみ、他は倒れた状態。

五輪塔は、供養塔のために建てられたものと、
墓石として建てられたものがあるが、
これにより野口原一帯は、墓地だったと推測できる。
出土した五輪塔は、地表から約1メートル削り取ったところに土砂や小石で埋まっていた。
地層を調査した結果、安山岩を主とする山麓堆積物からなる石垣原扇状地南東部の末端に当たる。
★造立当時の黒色火山灰層の上に5層の埋没土石流が重なっていることで、過去に少なくとも5回に及ぶ大洪水や水害があって埋もれたと考えられる。
この塔は、鎌倉から室町時代に別府一帯を支配していた豪族か武士の墓のようである。
別府史談会『別府の古い道 歴史散歩』より

現在は、復元したものを別府アリーナの西側(青山町9番41号の公園)に安置している。
昭和57年(1982)7月23日「野口原五輪塔群」として、別府市有形文化財に指定されている。

④上野口に眠る人物史
★堀助之丞吉正
天正5年(1577)生まれ、寛文元年(1611)1月27日84歳で他界した。
慶長14年(1609)11月6日
「初代、堀助之丞吉正」として
大庄屋の任命を受け、別府を治めた。
堀家は代々「助之丞」を襲名することになった。

堀家は、明治維新時の10代堀助之丞藤三郎まで
約240年間、豪商として栄えた。
特に、元禄2年(1689)に海門寺の再建に
尽力したことが伝えられている。

元禄6年(1693)4月10日
貝原益軒が福岡藩黒田氏関係の豊前、豊後両国の史跡調査のため、別府へ来たとき、
益軒は6日間、堀助之丞宅に投宿している。

堀助之丞吉正の墓
墓碑は高さ約2.5mの御影石で孫の吉次(2代目助之丞)と次道によって建立された。
堀家は慶長元年(1596)頃から
種油製造業、後に酒造業をなりわいとして財をなした。

10代・堀助之丞藤三郎(平野藤三郎)
明治維新による庄屋制度改廃の後、一切の公職を退き、
明治10年(1877)の西南戦争(西南の役)では西郷方に属した。
その後、平野家に婿入りし、一等地であった竹瓦温泉北側の土地を取得し、
旅館経営に乗り出す。
明治37年(1904)平野屋旅館を開業する。
大正5年(1916)平野屋別館を開業する。
大正11年(1922)享年74歳で生涯を終えた。

★梅田凡平
明治24年(1891)京都府出身。大正7年(1918)亀川町に移住、
没後までの11年間を別府で過ごす。
クリスチャンで童話を子どもに読んで聞かせる「別府お伽倶楽部」を結成。
クリスマスには自らサンタクロースに扮して小型の水上機に乗り込み、
別府の上空を1周して着水。
多くの子どもにプレゼントを配ってまわり、
「別府のニコニコおじさん」と親しまれた。
別府の宣伝活動において油屋熊八、宇都宮則網、原北陽らと共に別府の四天王とも呼ばれる。




梅田凡平の墓
墓石は高さ約4mの大自然石で、表には、「梅田凡平之墓」
裏には、「昇天昭和4年4月1日行年39歳『神は愛なり』」と刻まれている。
墓石の建立は、
創立した「別府温泉宣伝協会」の有志によるもので*約300円の費用をもって
豊岡の石で5月15日に完成した。
*当時の貨幣価値
銀行員(初任給)昭和4年=70円 昭和62年=146,000円

⑤今は亡き「米軍キャンプ施設」の残像
★別府翔青高等学校
平成27年(2015)4月
別府商業、別府青山、別府羽室台の3校が発展的に統合し、新設された。
統合後の校舎は別府青山高校及び、隣接した別府商業高校の敷地に設けられた。

本日もお付き合い頂き、誠にありがとう。

お世話になっている方々へ
いつもお世話になっております!
全ての活動を通して、私はいろんな方々に支えられており、応援して頂いているということを実感しております!
本当にありがとうございます!
これからも、ご縁を大切にし、感謝の心を忘れずに邁進していきますので、何卒よろしくお願いいたします!

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