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作者が本気で自分の小説を解説してみた5「未来撃剣浪漫譚ADAUCHI 上」

こちらは八幡謙介が2021年に発表した解説本です。

創作ノート

執筆の動機
 本作は僕の処女長編になります。執筆を開始したのは2012年だったと記憶しています。執筆の動機は、暇だったからです。といっても格好つけてるんじゃなくて、横浜に引っ越してきてギター教室を始めたものの、なかなか生徒が定着せず、かといって遊ぶ金もなく、当時はサブスクもなかったので、ひたすら有り余る時間をどうにかしようと小説を書き始めました。
 当初は新人賞を目指していたんですが、落ちたのでちょうどサービスを開始しはじめたKindleで個人出版しました。

設定
 今考えれば設定や人物はかなり安易に決めてしまっていました。世界観は、「攻殻機動隊」と「るろうに剣心」を足して二で割ったようなイメージです。近未来で本格チャンバラをしたら面白いんじゃないかと思い、イメージを膨らませました。
 また、エンタメといえば「モンテ・クリスト伯」や「忠臣蔵」などの復讐譚が定番で長く愛されているので、仇討ち劇としました。
 問題は仇討ちの整合性です。どうしたら近未来に公式の仇討ちが可能となるのか? それを考えた結果、東京が地震で壊滅し、巨大なスラムと化したという設定を思いつきました。そこからなし崩し的に、首都は京都となり、売春や大麻も合法にした方がサイバーパンク感が出ると考えたりしました。結果的に、好きなものを詰め込んだらジャンプ黄金期の少年漫画っぽくなりました。僕自身が「ドラゴンボール」「北斗の拳」「幽遊白書」「るろうに剣心」などをリアルタイムで読んでいた世代なので。

叡山
 本シリーズでは、比叡山が独立自治区として政府と対立しているという設定ですが、本格的に実体は描かれていません。長編4作目で叡山と都の対立、それに巻き込まれる無二たちを描いてシリーズは一旦完結する予定です。まあ、最初からそこまで見えていたわけではありませんが。
 なぜ叡山を悪に描くのかというと、特に理由はありません。そもそも、僕は滋賀で育ったけど比叡山には一回も行ったことがありません。滋賀県の人間からすると、比叡山ってあんまり観光に行くイメージではないんですよね。坂本(叡山のお膝元)のあたりもなんか暗いし、遊ぶところじゃないし、叡山の行者さんも普通にそこらへんに居るし、なんとなく不気味な存在だったりします。そうしたイメージと、歴史的に都に抗ってきたという知識を足して、叡山を改めて政府と対立させたら面白いだろうなーと考えたんだと思います。

キャラクター
 キャラクターを決めるにあたり、明確に意識したことがあります。それは、「富樫システム」です。
「富樫システム」とは僕の造語で、「幽遊白書」「ハンター×ハンター」の作者、冨樫義博氏の漫画から着想を得ました。
 富樫氏の漫画は、主人公よりも魅力的なキャラクターが何人も登場し、人気投票では主人公が3位、4位になることもあります。「ドラゴンボール」のように絶対的な主人公がいるのもそれはそれで魅力的ですが、富樫漫画のように、主人公と同等に魅力的か、あるいはそれ以上というキャラクターがいた方が作品が面白くなるのではないかと考えました。今風に言うと、推せるキャラが多いということです。
 ちなみに、本シリーズの主人公は無二です。しかし、本作(ADAUCHI)の主人公は凜になります。でも活躍ぶりでいうともしかしたら薫が一番かもしれません。また、愛されキャラでいえば熊ちゃんが一番かもしれません。読者それぞれの推しが見つかるような小説を目指しました。

ガジェット
 僕はガジェット好きなんですが、現実にはそんなにあれこれ買えません。もしかしたらその憂さ晴らしに小説にいろんなガジェットを登場させているのかもしれません。
 本作で最も重要なガジェットは〈ゴーグルです〉。コンピューターの歴史を紐解くと、進化の過程で必ず小型化、モビリティ化されます。また、デヴァイスの簡略化あるいは省略(消滅)という流れも見えてきます。パソコン→スマホという進化でそれがありありと分かります。機械は小型化され、持ち運べるようになり、キーボードやマウスというデヴァイスはスマホに取り込まれ、消滅しました。そこからさらに進化するとどうなるか? ウェアラブル化され、「持ち運ぶ」という概念すらなくなり、完全音声入力となって文字入力という概念が消滅する未来が見えてきます。2021年の時点ではまだそうなっていませんが、僕は必ず近い将来コンピュータは〈ゴーグル〉に近いものになると思います。
 その他細かいガジェットは書けばきりがないので解説に譲ります。

文体
 正直、本作執筆時にはまだ文体というものが分かっていませんでした。なので、所々純文学風の表現があったり、エンタメ風に簡素な表現をとっていたり、統一されていない感じがあります。まあそれも処女作の醍醐味かとは思いますが。

句点をつける
 本作には「 。」と、カギ括弧に句点を付けています。これはあえて行っています。個人的に好きだからですが、後になってエンタメ作品には「 。」としないほうがいいことに気づきました。純文学作品は句点をつけています。
 なお、小説教室などではカギ括弧に句点を付けるのは作法違反だとされていますが、個人的には関係ないと思っています。現代作家でカギ括弧に句点をつける人はいくらでもいます。

視点
 本作は三人称複数視点を採用しています。何の気なしにこの視点を採用したんですが、あとからかなり高度な小説テクニックを要する書き方だと知りました。視点の工夫の跡は解説でご確認ください。

主題
 本作はエンタメ小説なので、主題らしい主題は特にありません。とにかく、面白いお話を書こうと努力しました。強いて言えば、武道の実際をできるだけリアルに描くのが本作の目的です。もちろん小説なのでファンタジーもありますが、8割ぐらいはリアルに描いたつもりです。

上巻解説

プロローグ

本作は近未来を舞台にした長編小説ということで、まずは読者に端的に世界観を理解してもらうよう、プロローグを設置しました。
 ここで知ってもらいたいのは、

・近未来が舞台
・しかしバトル自体は刀や武術などの肉弾戦
・仇討ちが合法化されている
・討ち屋という仇討ち代行業がある
・主な登場人物の紹介

といった情報です。そこで、主要登場人物の芹澤無二、妹の茜、同業者の望月薫をいきなり登場させ、経緯を大胆に端折っていきなり仇討ち代行を行わせることにしました。仇討ちする相手を元軍人とし、抵抗させることでバトルに持っていきます。そういった流れの中で世界観を理解できる描写を行い、できるだけ説明的になることを回避し、スピード感やワクワク感のあるプロローグとなるよう心がけました。

 繁華街の中央を突っ切る大通りの軒下で、少女は雨宿りをしながら、喧噪を眺めていた。この通りは比較的小ぎれいな店が多い。色とりどりの上品なネオンに雨粒が煌(きら)めいて、一種幻想的な夜の風景を画き出している。有名店の前には芸能人のホログラムが投射され、何バージョンかのPRを延々とランダムに繰り返している。
(次、あのぶりっ子バージョン、あ、違った!)
 退屈しのぎにホログラムを眺める少女に、酔っ払いたちは、値踏みでもするかのような不躾な視線を送る。しかし彼らは、少女の隣に立つ男にちらりと目をやると、諦めたような顔ですごすごと去って行く。
 男はがっしりとした体躯に精悍(せいかん)な顔立ち、左手には、袋に包まれた細長い棒状のものを携(たずさ)えている。少女はつと男を見上げて、
「お兄ちゃん、薫、遅いね。」

冒頭は雨にきらめくネオンのイメージがあったので、それを表現しようとしています。
【一種幻想的な夜の風景】というのがちょっと気になりますね。【一種】というのがどういう感じなのかを表現するべきでした。
 お店の前には芸能人のPR用ホログラムが投射されています。ここで近未来感を出しています。それを見る少女と、隣にいるなんだか強そうな男。彼らが物語の中心人物だと理解できると思います。しかしここではまだ紹介はしません。ここでナレーションとして人物紹介をすると説明的になってしまうので。
 同様の理由で少女に「お兄ちゃん、薫、遅いね。」と言わせることで、【薫】という人物を待っていることが分かります。これも【少女は薫を待っている】とすると説明になってしまいます。

 と、――
 二人の元へ、小走りで駈け寄ってくる者がいる。ふわりとした髪、華奢(きやしや)な体つき。雨粒はスポットライトのようにきらきらと輝いて、彼の端正なマスクを引き立てる。すれ違う女性たちは、必ず彼を目で追い、黄色い声援をあげる者もいる。美少年は男に近寄ると、
「無二サン、吉田はさっき、裏路地の店に入りました。」
 その言葉を聞いた瞬間、男――芹沢無二の目つきが変わった。
「よし、いこう。茜――」
 と妹を見る。茜は満面の笑みで「うん!」とうなずいた。

二人の元に颯爽と登場する男。周りの反応から美少年であることが分かります。彼が話しかけることで、自然と男の名前が「無二」であることを読者に提示します。また、男は報告を受けると、少女に【よし、いこう。茜――】と告げます。地の文で【と妹を見る】としておけば、茜は芹澤無二の妹だと分かります。
 このように、できるだけ人物を動かしながら情報を提示していき、ナレーションを可能な限り回避するという作戦です。読み返すとちょっとアニメ的なオープニングですね。
 また、本作は三人称複数視点となっています。視点を随時切り替えることで、映像作品のようなダイナミックな描写が可能となりますが、その分テクニックが必要となります。

 裏路地には、大陸難民の経営する薄汚い店が軒をつらねる。しかし、不思議とこちらの方が日本人の馴染みが多い。薫は二人を目標の店が見える位置まで誘導した。
「まず俺が客のふりをして入ります。無二サンたちは五分したら入ってきてください、それまでに客と店員を外に出しておきます。」
「薫、気をつけてね。」
 茜が心配そうな目つきで言った。薫は、雨に似合わない清涼感溢(あふ)れる笑顔で、
「バーカ。」
 と茜に言って、颯爽と店に向かった。
「なによ、心配してやってんのに。」と茜は頬(ほお)をふくらませた。
 雨脚が少し強くなってきた。二人はまた軒下に避難して、きっちり五分待ったが、正面からは誰も出てこない。
「お兄ちゃん、どうしよう……」
 茜はまた不安そうな顔で無二を見上げた。
 すると無二は、無言で細長い袋の紐をほどきはじめた。中から日本刀を取り出し、袋を茜に渡す。
「裏口があるのかもしれない。逃すとやっかいだ、行くぞ。」
 茜は急に瞳をキラキラと輝かせ、兄を見上げると、
「口上、あたしが言っていい?」
 無二は苦笑いしながら了承した。
 茜は店の前まで来ると、満面の笑みを浮かべて、薄汚れたドアを勢いよく開けた。
「吉田五郎さんっ! 芹沢事務所が仇討ち代行に参りましたぁ!」
 よく通る甲高い声が狭い店内に響く。カウンターには料理が手つかずで残っていて、客も店員も見当たらない。
(薫がちゃんと裏口から逃がしてくれたのね――)
 茜は仕事が順調に進んでいることに満足を覚えた。
 と、奥からナイフを手にした男がのっそりと現れた。中背だが、せり出した胸と腕の太さが際立っている。
 茜は下がって、後は無二に任せることにした。ここからは、野次馬整理が忙しい。

イメージは横浜中華街です。難民が流入しているという情報もさらっと提示しています。薄汚い路地裏の店の方が日本人に人気というのは、絶対必要な情報ではありませんが、世界観をリアルに演出するためです。
 茜が心配そうに【薫、気を付けてね。】と言うことで、美少年の名前が判明しました。薫に【バーカ】と軽口を言わせることで、二人の関係性を提示しつつ、読者に名前を覚えるきっかけを与えます。
 また、このプロローグは雨のシーンなので、読者にそれを忘れさせないために、【雨に似合わない清涼感溢れる笑顔で】【雨脚が少し強くなってきた】と適度に雨の情報を入れます。
 さて、無二が袋の中から日本刀を取り出しました。茜は【口上】を言っていいかとおねだり。何かがはじまる予感がします。

【吉田五郎さんっ! 芹沢事務所が仇討ち代行に参りましたぁ!】

ここで芹澤無二、茜、薫が仇討ち代行とやらを行っていることが分かります。【口上】とは、仇討ち代行に来たことを相手に告げることです。本来は代行者である芹澤無二が言うものですが、茜は代わりに自分が言いたくて仕方ないようです。無邪気な性格を描写しています。
 相手は【吉田五郎】という軍人崩れ。ナイフを持って出てきたことで、自分が仇討ち(代行)される身分であることを知っています。プロローグ用の雑魚キャラ(といってもそこそこ手強い)なので、深くは描写しません。それよりも展開のスピード感を重視します。
 薫が裏口から店員や客を逃がしたこともさらっと描写。茜は野次馬整理に回り、準備が整ったところでいよいよバトルシーンに突入します。

 無二は店の入り口から吉田を確認した。
(いかにも軍人って面だな――)
 手にしているのは厚手のコンバット・ナイフ。資料によると元自衛軍所属、半島ではゲリラ戦も経験したらしい。
 吉田は無二を見て渋面を作ると、
「ふん、討ち屋か、いずれ来ると思ってたぜ。」
 と吐き捨てた。酒で顔がほんのりと赤らんでいる。
「上等だぁ、外で相手してやるよ。お前らみたいな道場でのチャンバラごっこじゃねえ、こっちは実戦をくぐり抜けてきたんだ。」
 吉田は自ら、圧倒的不利な条件を選んだ。狭い店の中では、日本刀よりもナイフの方が扱いやすいのは明白だが、酒で気が大きくなっているのか、それとも元軍人の矜恃か。 
 無二は吉田から目を離さずに、後ずさりしながら店を出た。背中に感じる雨がさっきよりもやや強い。グリップの強いスニーカーを履いているので、滑ることはないだろう。
 凛は無二が出てきたのを見ると、すぐに状況を察した。両手を口の脇に当ててメガホンのようにし、既に集まりはじめた野次馬に向かって、「はい! 皆さん、今から仇討ち代行を行いまーす! 危ないですから下がってください。ゴーグルでの録画はできればご遠慮くださーい!」
 言っても無駄なことは分かっている。数時間後には、この仇討ち動画がネットを駆け巡るだろう。
 吉田も店から出てきた。腰を落として左半(はん)身(み)に構え、右手にナイフ、左手は指先をピンと伸ばし、顔の少し前に留めている。無二は相手のファイティング・スタイルをざっとイメージした。
(構えが空手に近い、突き蹴りと組み合わせたナイフ・コンバットか……ナイフの形状からも、投げはしないだろう。)
 しかし、無二はまだ抜刀しない。抜き身の刀は意外ともろく、鎬(側面)を叩かれると簡単に折れてしまう。そのことを相手が知っている可能性がある。
 吉田の向こうにいる野次馬の中に、薫の姿が見えた。店員を無事連れ出したようだ。

【無二は店の入り口から吉田を確認した】
 この文章はちょっと説明臭いですね。もう少し詳しく描写すべきところです。
 無二はまず吉田の様子を伺い、できるだけ早くその力量を確かめようとします。その無二の視点から吉田を読者に見せていきます。とりあえず現在の情報は、

・コンバットナイフ所持
・元自衛軍
・討ち屋が来るとわかっていても酒を飲んでいる。豪胆、自信家?

しかも無二が現れると自ら相手を買って出ます。吉田が戦闘に自信を持っていて、討ち屋をバカにしているというのが分かります。
 なお、現時点で吉田は無二が日本刀を使うということを知っています。なぜかというと、この時代の仇討ちは日本刀で行うのが主流だからです。詳しくは物語が進むにつれて分かってきます。
 日本刀は屋内での戦闘に不利であると言われます。もちろん達人ならその辺のことも熟知し、対処法を持っていますが。吉田は、わざわざ相手に有利な屋外に出て戦うことを選択しました。彼の傲慢な性格を表現しています。

【背中に感じる雨がさっきよりもやや強い。グリップの強いスニーカーを履いているので、滑ることはないだろう】

無二が熟練の討ち屋であることを描写しています。今日は雨の予報なので、滑らないように雨用のスニーカーを履いてきています。

無二は吉田と対峙しているので周りの状況ははっきりとは見えていません。そういったことの処理は茜に任せてあります。そこで視点を変えて、茜に野次馬整理をさせることで周りがどんな状況かを読者に提示します。

すぐに視点を無二に戻します。
 無二は吉田の目付を行います。目付とは古武術で使われる用語で、相手との間合いはもちろん、武器、力量、ファイティングスタイル、精神状態などを「見る」ということです。そこから攻防をイメージします。

無二は目付から、とりあえずまだ刀を抜かないという選択をしました。

【抜き身の刀は意外ともろく、鎬(側面)を叩かれると簡単に折れてしまう】

これは一般的によく言われることですが、実際は分かりません。日本刀はかなりしなやかで弾力もあるという話もあります。とはいえ、司馬○太郎みたいにいちいち余談や諸説を入れてしまうとうるさくなるので、断定しています。
 無二の視界に仲間の薫が見えました。店員を無事救出したようです。ここでシーンが動きます。

 と、――
 いきなり吉田が突進してきた! 無二は一瞬虚を突かれ、反応が遅れた。吉田はいつの間にかナイフを左手に持ち替え、無二の右半身を突いてきた。無二は右足を後ろに下げて突きをかわす。
(こいつ……)
 こうすれば抜刀し辛くなることを知っている。
(鞘ごと叩くか。)
 タイミングを見計らえば、左手に持った刀で相手の側頭部にカウンターの打撃を入れることはできる。が吉田はそれも見越しているのか、空いた右掌を右頬にぴたっと付け、肘で脇腹をガードしている。
 吉田は、のっけから防戦一方となった相手を、心中侮蔑した。
(実戦は攻撃あるのみだ! 道場で屁理屈をこね回す辛気臭い剣術屋には、一生分からんだろうな!)
 無二は執拗な突きをかわしながら、冷静に吉田のナイフ捌きのクセを読んでいた。ナイフを戻す際、時折引きすぎることがある。その瞬間に吉田の左半身に隙ができる。
 鋭い突きが来る、無二の脇腹を少しだけかすった。吉田はにやりとし、また突きを繰り出す。その際、脇が少しだけ空いたのを無二は見逃さなかった。
(ここだ!)
 吉田が突き、ナイフを引く瞬間に合わせて、無二は右前蹴りを放つ。ずっしりとした肉の感触を靴底に感じる。
 吉田は膝を折り、うずくまった。無二はすかさず飛び退いて、抜刀し、鞘を捨てた。野次馬からどよめきが起こる。
 吉田は腹を押さえながら、なんとか立ち上がった。瞳は、怒りに狂って焦点が合っていない。ナイフを右手に握りしめると、奇声を発しながら突進してきた。
 無二は素早く下段に構えた。
 吉田は無二の左側頭部目がけてナイフを振り下ろす。が、一瞬早く無二は腰を沈め、刀を頭上に立てた。両掌にずっしりとした衝撃が伝わってき、首筋に生暖かいものがかかった。
 立ち上がり、振り向きながら正眼に構えを直す。吉田は血だまりの中、右腕の上腕部をおさえて苦悶の叫びをあげている。無二はなおも慎重に近づくと、素早く刀を振りかぶって、吉田の首筋に振り下ろした。
 歓声と拍手に混じり、罵声も聞こえる。仇討ち反対派の者だろう。しかし、無二を恐れて誰も近寄ってはこない。
 血溜りを雨が薄める。
 野次馬たちは事の終わりを確認すると、何事もなかったかのように夜の街に散っていった。
「お兄ちゃんオツカレ! けっこう手強かったね、この人。」
 茜が傘を差しだしながら、ゲームの対戦相手でも見るかのように、動かなくなった吉田に目をやった。無二は思い出したように刀を投げ捨て、茜の差しだした傘を手にし、これからの面倒な事後手続きを想像して溜息をついた。
 遠くから、サイレンの音が幽かに聞こえた。

ここから戦闘開始です。無二が仲間の薫を一瞬確認したとき、吉田はチャンスと見て一気に攻撃を開始します。戦場帰りらしい機敏な判断です。また、吉田は無二の右半身を攻撃してきます。そうすると刀を抜きにくくなります。
 無二は現在右半身を後ろに下げて、左半身が前に出ている状態。刀は左手に持っています。このまま鞘ごと吉田の側頭部を叩くというのもありですが、吉田はそれを見越してきっちり防御しています。
 一瞬視点を吉田に移し、心理描写をします。相手を見下す描写をしておくことで、その後に隙が生まれることの必然性を読者に暗示します。
 防戦になりながらチャンスをうかがう無二、奢る吉田、そこに隙が生まれました。
 前蹴りで吉田の動きを止めた無二。落ち着いて抜刀します。服装は洋装、道具にこだわりを持たず、刀も神聖視していないので鞘は捨てます。
 後は怒り狂った吉田が隙だらけの攻撃をしてくるので、冷静に仕留めるだけです。
 余談ですが、本作での剣術はリアリズムを基調としているので、必殺技は基本出さないつもりで書き始めました(まあ、ないこともないんですが、そこら辺は後に解説します)。

無事仇討ち代行を完遂した無二に、罵声が飛びます。仇討ち反対派の人間です。社会情勢を想像してこういった描写を挿入しました。後に登場する主人公・凜の親友も仇討ち反対派です。
 戦闘シーンが続いたので、【血だまりを雨が薄める】と、改めて軽く雨の描写を足して、情景を整えます。雨脚を強めてもよかったかもしれません。
 仕事を終えた無二に明るく話しかける妹の茜。二人にとってはこれが日常です。ただし、プロローグなので詳しくは描写しません。

無二は刀を無造作に放り投げます。刀を神聖視していないことを再度表現しています。また、人を殺したことよりも、この後の警察とのめんどうなやりとりを考えて溜息をつくという、冷酷な性格を描写しています。
 サイレンの音は、シーンの転換のための小道具です。


第一章

第一章は本作の主人公である二階堂凜、蘭の姉妹の紹介と、世界観やガジェットの描写が目的となります。これも説明的にならないよう、また、できるだけ停滞感を出さないように工夫しました。
 余談ですが、当初はこの第一章から物語をスタートさせていました。しかし退屈な気がしたので、動きのあるプロローグを後に足しました。

 二階堂凛は、ついゴーグルをかけたまま、夕食の仕度をする姉の方へと顔を向けた。キッチンいっぱいにホログラムが投射される。彼女はそれをわずらわしく思い、ゴーグルをめんどくさそうに外してから、
「ねえお姉ちゃん、」
「んー? なあに?」
 蘭はフライパンを見つめたまま、顔をややこちらに傾けて応えた。凛は少し声を上げて、
「またウォールに穴だってぇ。新横らしいよー。」 
「仕方ないんじゃない? あんなに長いんだもの、全部は見張ってられないでしょ? 凛、そろそろテーブル片付けてよー。」
「はぁい。」
 そう返事はしたものの、キッチンの様子からまだ猶(ゆう)予(よ)はあるとみて、凛はまたグリーンバックを張った部屋の隅に向きなおり、ゴーグルをかけ直した。投射されたホログラムが乱雑に並んでいる。それらを目で追うと、焦点が合ったアイコンやサムネイルが拡大される。
「んー、ちが、ああもう、検索じゃないってばぁ。」
 意に反して現れた検索ボックス――先ほどの『んー、ちが』云々が入っている――に焦点を合わせ、「それ、消して。」と言うと、また視野を拡げた。
 蘭はやっと振り向くと、ゴーグルの操作に苦戦する妹を見て、微笑を漏らした。

まず最初に二階堂凜を描写することでこの子が主人公あるいは重要な人物であることを暗示します。

【ついゴーグルをかけたまま】

わざわざ【つい】とつけたのは、彼女にとってゴーグルをつけているのが当たり前だからです。

【キッチンいっぱいにホログラムが投射される】

どうやらこのゴーグルを介してARが投射されているらしい、と分かります。

【「ねえお姉ちゃん、」
「んー? なあに?」
 蘭はフライパンを見つめたまま(以下略)】

姉の二階堂蘭をナレーションで紹介するのではなく、このように妹から話しかけさせることで自然に関係性を提示します。この文章を読んだら誰でも蘭が凜の姉であると理解できます。

【「またウォールに穴だってぇ。新横らしいよー。」 
「仕方ないんじゃない? あんなに長いんだもの、全部は見張ってられないでしょ?(以下略)」】

これだけではなんのこっちゃ分からないと思いますが、後でまとめて説明するのでここは流すことにしました。

【凛はまたグリーンバックを張った部屋の隅に向きなおり、ゴーグルをかけ直した。投射されたホログラムが乱雑に並んでいる。それらを目で追うと、焦点が合ったアイコンやサムネイルが拡大される。】

部屋にCG撮影などで使われるグリーンの幕が張ってあります。ゴーグルから投射されたARを見やすくするため、この時代はグリーンバック仕様の部屋が当たり前です。
 それらのアイコンは、目の焦点が合うと拡大されます。ゴーグルは目でガジェットを操作するデヴァイスだということが分かります。
 この時代(2045年)のメインコンピュータを想像したとき、間違いなくタイピングは消滅しているだろうと予測しました。また、ARも日常生活に溶け込んでいるだろうと考えられます。となると、必然的にデヴァイスはゴーグル型となります。操作は目線と声です。

【「んー、ちが、ああもう、検索じゃないってばぁ。」
 意に反して現れた検索ボックス――先ほどの『んー、ちが』云々が入っている――に焦点を合わせ、「それ、消して。」と言うと、また視野を拡げた。】

これは、凜の声に反応してゴーグルが検索ボックスを自動で出してきたことを描写しています。これ自体わからなくても直後にナレーションとして説明が入るので問題ありません。ただ、こういった描写がなくていきなりナレーションだと説明的になって退屈なので、先にこういった動きを挿入しました。
 余談ですが、【ゴーグル】は現代(2021年)のスマホのようなガジェットなので、高校生ぐらいから本格的に使い始めます。高校生の凜はまだゴーグルに慣れていないので操作に苦戦しています。メカ音痴なところで可愛らしさも表現しています。

〈ゴーグル〉は文字通り、ゴーグル型のコンピュータ・デヴァイスである。
 オンにすると、ちょうど眉間のあたりにあるプロジェクタから、空気中に文字や画像が立体投射される。投射された画像は本人のゴーグルからしか見られないのだが、共有は可能である。デフォルトで電話機や、カレンダーや、テレビのモニタや、音符などのアイコンがあり、それらを追う目の動きは、ゴーグルのレンズで感知される。焦点が合うと、アイコンが少し拡大される。それらを、「つけて。」とか、「開いて。」とか「消して。」と、声で操作するのである。音声は骨伝道マイクでこめかみから拾われるので、操作にはささやき程度で十分である。あらかじめインストールされている音声認識ソフトが、自動的に本人のイントネイションや言い回しを学習するので、操作精度は使えば使うほど上がるのだが、凛のはまだ少し誤動作が出てしまう。

ある程度動きで人物やガジェットを紹介したので、ここいらで一旦ナレーションを入れ、補足します。このように、動きからナレーションに入るのが本作の基本的なリズムとなっています。

「それ、保存。保存っ!」
 凛は『第二次関東大震災全記録』というサイトを見つけ、軽く目を通して保存した。レポートの資料集めだった。
 次いで、関連トピックを見ていった。焦点が合うごとにタイトルが拡大される。『新横浜県*町で〈ウォール〉に穴、不法難民の流入に警戒を』はさっき見た今日のニュース、続いて『心の〈ウォール〉~日本人の心に聳(そび)える〈ウォール〉とは』『第二次関東大震災と東アジア紛争』『東日本大震災と第二次関東大震災』を矢継ぎ早に保存し、ついでに『Last Paradise決死行』という写真集も、ちょっと違うかなと思ったが念のため保存した。
(こんなに読めるかな? ご飯のときお姉ちゃんにもきいてみよう。)
 キッチンを見て気配を察すると、「終了、閉じて。」とつぶやいた。目の前の画像が消え、部屋は一気に味気なくなった。この瞬間にいつも寂しくなる。それが嫌で、凛はゴーグルがあまり好きになれなかった。
 キッチンに向かい、フライパンの中を覗き込む。
「お、ハンバーグだ!」
 蘭はゴーグルをかけたままの妹を見て、眉をひそめた。
「凛、人と話すときはゴーグルは取りなさい、マナー違反よ。」
 凛は口を尖らせて「もう消してるもん。」と反論しながら素直にゴーグルを外した。
(たまたま外し忘れただけなのに、お姉ちゃんはこういうの絶対に見逃さないんだから……)
「消してるかどうかは本人しか分からないでしょ? 凛、『親しき仲にも礼儀あり』よ。それに……」
 と振り返ると、いつの間にかテーブルがセッティングされており、両親の遺影も、いつものようにちゃんと置かれていた。
(要領のいい子……)
 凛は言ってもすぐにはやらないが、〝今〟というタイミングには、必ず行動していた。それが分かっていてもあえて小言を言い続けるのは、私が親代わりだという蘭の使命感だった。
 二階堂姉妹は、両親を亡くしていた。遺産は既に成人していた蘭が相続し、管理している。保険金も下り、蘭も仕事をしているので、当面二人で食べていくには困らなかった。

ナレーションを適度に済ませたら、また人物を動かしていきます。次は凜が学校のレポート用資料を検索しているシーンですが、実は資料集めという体で本作の世界観を読者に提示するのが狙いです。
 凜が保存した資料は、

『新横浜県*町で〈ウォール〉に穴、不法難民の流入に警戒を』
『心の〈ウォール〉~日本人の心に聳える〈ウォール〉とは』
『第二次関東大震災と東アジア紛争』
『東日本大震災と第二次関東大震災』
『Last Paradise決死行』

です。
 これらのタイトルを見ただけで、

・新横浜が県になっている
・不法難民が増えている
・第二次関東大震災があったらしい

という情報がわかります。また、〈ウォール〉や〈Last Paradise〉というワードも気になるでしょう。それらは次に説明します。

【「凛、人と話すときはゴーグルは取りなさい、マナー違反よ。」
 凛は口を尖らせて「もう消してるもん。」と反論しながら素直にゴーグルを外した。】

ゴーグルは相手を録画したり、何かを投射しながら話せるデヴァイスなので、かけながらだといたずらなどをしている可能性があります。従って、人と話すときはゴーグルを外すのがマナーです。このマナー自体作中では全く重要ではないのですが、こういった描写を入れておくと、ガジェットを通じて作中の社会がなんとなく想像できます。

【(要領のいい子……)
 凛は言ってもすぐにはやらないが、〝今〟というタイミングには、必ず行動していた。】

じつはこれは伏線です。凜は後に【天心】という武道の究極の状態を体得するのですが、そういった資質があることをここで暗示しています。
 そこから二人の生活状況を軽くナレーションで説明しています。会話にしてもいいんですが、あまり長くなるとダレるので、こうしてちょこちょこナレーションを入れています。

 凛はハンバーグを箸で分割し終えると、
「あ、そうだ……ねえお姉ちゃん、」
「ん? ああ、〈ウォール〉の話?」
「あ、んーっと……」
 そっちは後できくつもりだったのだが、蘭に促され、混乱してしまった。どうしようかと迷って、凛はやっぱり思いついたことから口にした。
「私、アシンパ似合うかなぁ?」
 そう言って首をかしげ、ボブの髪を左手で梳(す)いた。
 アシンパ――アシンメトリィ・パーマ――は、40年代のヘアスタイルとしてすっかり定着していたが、似合う似合わないがはっきりしている。親友の友子は『絶対似合うから!』と何度も勧めてきたが、凛はまだ迷っていた。
 蘭は質問には答えず、
「ダメよ、まだ高校生だし、お小遣い足さないからね。」
 と、妹をたしなめた。
「それに、あれは派手な顔じゃないと似合わないでしょ?」
「どうせ私は地味な顔ですよ。」
 凛はふくれて、今度は揃えた前髪をいじりながら、箸を付け合せのニンジンに勢いよく刺した。箸はにんじんを貫通して皿にぶつかり、カツンと鳴った。それがきっかけなのか、凛は当初の質問を思い出した。
「そうそう、宿題でね、第二次関東大震災のレポート書かないといけないんだけど、お姉ちゃんって記憶ある? 家族の証言とかもきいてきなさいって。」
 蘭は大げさに顔をしかめて、
「あるわよぅ! そりゃあもう、すっごい揺れたのよ。震災が確か2027年で……今年が45年でしょ? そっか、凛は生まれたばっかりだったから分かんないよね。あの時はもう怖くて怖くて……。その後で〈セント〉って言葉をあちこちで聞いて、意味が分かるまで時間がかかったわ。しばらくして、神奈川が〈新横浜県〉になりましたって先生が言って、なんだか不思議だったなぁ、横浜は今も横浜なんだけど。」
「あ、〈カナガワ県〉って小学校のときテストに出た! 私ずっと〈カナワガ〉って覚えてて、何回も間違ったから。」
 蘭は、まだ妹が小さかった頃、夕食後に何回もテストしたのを思い出して、口角を上げた。
「そうそう、そこから、日に日にぼろぼろの格好した人たちが横浜にも増えてきて、〈ウォール〉の建設が始まったのが中学生ぐらいだったかしら?」
 と、そこで急に噴き出した。釣られて凛も笑顔になる。
「私さ……、人がいっぱい追い出されて、東京にすっごい大きなお城が建つんだって思ってたの。で、私がそこのお姫様になるんだって毎晩夢見てた。フフッ、子供よね。」
 蘭はそう言って視線を落とし、しばらく自分の皿を眺めていた。まるで、そこに当時の混乱の様子が映し出されているかのように。

時代感覚を描写したくて、2045年の流行である〈アシンパ〉という髪型をつくりました。特に深い意味はありません。ただ、高校生にはちょっと派手なのか、姉の蘭は否定的です。
 その後、凜は本題に戻りますが、きっかけとして箸が皿にぶつかる音を挿入しています。これも深い意味はありませんが、クッションとして機能していると思います。ここから、凜が蘭に宿題の相談をするという体で、この時代を描写していきます。要約すると、

・凜が生まれた頃、第二次関東大震災が起こった
・その後遷都があり、神奈川県は新横浜県になった
・怪しい人が増え、〈ウォール〉の建設がはじまった

ここまでを会話で進めました。さらに細かい情報をナレーションとして説明しています。

 2027年、第二次関東大震災により、首都東京は壊滅した。
 時の首相は米国で行われていた日米首脳会談を中断し、関空へ降りた。同日、偶然にも外遊中であった天皇皇后両陛下を京都御所へお迎えし、そのまま京都から指揮を執った。といっても、国家の中枢が完全に麻痺した状態では成す術もなく、火の海と化した東京を『注意深く見守る』しかなかったが。
 かつての東京は、どこまでも続く瓦礫の海と化した。自衛軍も救出作業のみを行い、復旧作業は行わなかった。かくして日本の首都は京都へと戻った。プライドの高い京都人は、表向きは東京壊滅に同情を寄せたものの、裏では得意の二重三重に入り組んだ皮肉を囁きあいながらほくそ笑んだ。
 旧東京は、『都市を復旧して国を滅ぼすべきではない』と、新政府に体よく見捨てられた。
「でもさあ、人が生活できるようになったってことは、その当時頑張ってたら復旧できてたんじゃないの?」
 凛はそう言ってハンバーグの最後の一切れを口に入れた。
 震災から一年ほど経ち、放置された旧東京に政府や民間の調査団体が踏み込むと、不自然な集落が多数発見された。現在、世界最大規模のスラムとして名高い〈Last Paradise of Tokyo〉、通称〈ラスパラ〉の原型である。
「そうねえ――」
 蘭は先に食事を終えて、お気に入りのベトナム茶〈蓮茶〉を飲んでいる。
「私もわかんない。財政とか、外交とか、色々難かしかったんじゃない? 結局、今となっては不法難民や犯罪者、軍人崩れのマフィアやヤクザがひしめきあってる無法地帯、今さらどうしようもないわよ……。西の人たちは未だに『とんでもない』って言うけど、隣接している新横県民としては〈ウォール〉で区切ってもらわないと危なっかしくて外も出歩けないわ。凛――」
 蘭はお気に入りのベトナム製湯飲みを置いて、妹を真っ直ぐ見据え、
「いつも言ってるけど、たとえ護衛付きのツアーでも、絶っ対に〝向こう〟には行っちゃダメよ!」

第二次関東大震災について、できるだけ手短に解説しようと努めました。内容は読んだ通りですが、そこに京都人のイヤミを足しています。本作は京都への愛憎みたいなものもあちこちに出ています。僕は生まれが京都なので、同族嫌悪みたいなものがあるのでしょうか?
 ナレーションだけだと味気がなくなるので、後半は会話を交えつつ〈Last Paradise〉という旧東京について現状を説明しています。 要約すると、震災後新政府は旧東京を見捨て、そこに巨大な壁を建設して蓋をしたということです。新横浜県はその〈ウォール〉と隣接している県なので、よく〈ウォール〉からこちらに来た怪しい人物がうろちょろしています。
 後で気づいたことですが、壊滅し放置された東京という設定は、攻殻機動隊でも使われていました。たぶん頭の隅に残っており、それを引き出してきたんでしょう。攻殻での東京は核攻撃で壊滅したのでそこは違いますが。

 凛は食事を終えると、またゴーグルをかけて続きを始めた。  
 先ほど保存した記事を読んでいると、視界の隅にあるメールボックスの宝箱が光り、その上にサムネイルが出た。
(友子から射メだ!)
 凛は嬉しくなって、読みかけの記事に「消して。」とつぶやいた。次いでサムネイルに焦点を当てて、「それ、開けて。」
 友子の上半身が投射された。髪を雑に留め、地味なタンクトップ一枚と気の抜けた格好、自宅からだろう。
「再生。」
「やっほー、凛!」
 と友子が手を振る。録画されたホログラムを再生しているだけなのに、いつもつい、釣られて手を振り返してしまう。
「明日ぁ、ボックス行かない? オッケーなら予約取っとくから、早めに返事してね。明日もお昼教室行くね。じゃーねー。」
(ボックスかあ……)
 明日は金曜日で、お姉ちゃんはデートだから夕飯は一人になる。どうせなら誰かと一緒の方がいいに決まっている。ボックスなら食事もできるし。そう思って、友子に文字だけのOKメールを送った。自撮り用のプロジェクタは持っていない。
(普通に楽しくおしゃべりできたらいいんだけどな……)
 友子は論客であった。人権活動家の母親の影響である。遊んでいる最中でも、何かのきっかけで熱弁が始まり、女の子にしてはめずらしく、結論が出るまで話を止めない。凛は賛成も反対もせず、いつも聞き流していたが、何かに熱くなれることは単純に羨ましいと思っていた。

ここからはもう少しゴーグルに慣れてもらうため、ゴーグル特有のコミュニケーション方法を使って凜を動かします。

【射メ】
 投射メールの略。ゴーグルは眉間のプロジェクタから映像を空気中に投射できるので、その機能を使ったビデオメールのようなものが主流になるのではないかと考えました。

音声で操作しているところにも注目。ちなみに、執筆当時(2012年頃)はまだデヴァイスの音声操作は主流になっていませんでした。アップル社がSiriをOSに実装したのは2011年、アマゾンがAlexaをリリースしたのが2014年です。2021年現在では様々なデヴァイスが音声操作対応となっているので、本作の舞台である2045年にはもっと浸透していることでしょう。

【ボックス】
 後で出てきますが、この時代の一般的な遊び場です。カラオケ、映画館、レストラン、ネットカフェ、その他様々な娯楽施設を全部融合したような場所で、ゴーグルとコネクトして遊びます。

【友子】
 凜の親友。仇討ち反対派の論客。後に凜の仇討ちに反対します。ちょっと説明的過ぎる点を反省。後で出てくるのでそこで動かしながら読者に印象付けた方がよかったと思います。
 ここで一度名前について説明しておきます。2045年では、00年代から流行ってきたキラキラネームが一周してダサいという認識になっています。だから友子とか凜といったわりと普通の名前が好まれます。逆に中年の先生が心愛といったキラキラネームとなっています。

 翌朝。
 テーブルには既に、朝食と弁当が用意されていた。蘭はいつもの仕事着だが、メイクも髪型も、ばっちり気合が入っている。イヤリングも初めて見るやつだ。
「お姉ちゃん、私今日、友子とボックス行ってくるから。」
「そ、友ちゃんともしばらく会わないわね。」
 蘭はそっけなく応えた。
(外出するのに、いつもの小言がない……)
 姉の上の空な態度に、凛(りん)はニヤリとした。きっとデートで頭がいっぱいなんだ。蘭はニヤニヤする妹を見て、
「なによ、凛、変な顔して――」
「お姉ちゃん、何かいつもと違う。」
「違いません!」
 蘭は目を合わせずそう言って、パンを一口囓った。凛は姉の腕に、普段は絶対にしない高級ブランドのブレスレットが嵌(は)められているのを見てとると、ますます興が乗って「もしかして今日、プロポーズされたりしてー。」とわざといやらしい口調で言った。
 蘭は今度は明らかにうろたえながら、
「ちが……もう、大人のお付き合いに口を挟むんじゃないの!」
 と、さっきより少し強く妹のおふざけを戒めた。
(私だって色々考えてるんだから……)
 蘭は妹の無邪気さが気に食わなかった。子供じゃないんだから、もう少し私の微妙な立場を理解してよ。
 パンを一旦皿に置き、紅茶に砂糖を入れようと思った瞬間、目の前に砂糖壷が現れ、面食らってしまった。 
 固まっている姉を見て凛は、
「あれ、お砂糖じゃないの?」
 と、もうさっきのやり取りは忘れ、面食らう姉を不思議そうに眺めている。
「あ、うん……ありが、と。」
 蘭は、本当にこの子はエスパーじゃないかと思った。時々こういうことをする。それならそれで、もっと私の置かれている状況に気を使って欲しいものだ。
 凛はそそくさと朝食を済ませ、「行ってきまーす、頑張ってね、お姉ちゃん。」と、意味深な笑顔を見せ、学校に向かった。

このシーンは近未来感はありませんが、今後の展開に重要な意味を持っています。
 まず、蘭が今日デートで遅くなるということは前段で説明しています。しかし凜は、姉がいつもより気合いを入れていることを察し、からかいます。それを諫める蘭。そんな会話から、姉妹の立場や考えの違いを描写しています。
 次に、蘭が砂糖を欲した瞬間に凜がそれを察して目の前に出すという描写があります。実はこれが後々凜が獲得する奥義〈天心〉につながっています。凜は生死を賭けた決闘の場で、この天生の察しの良さを昇華させ、〈天心〉で仇を倒します。
 そのシーンを先に抜粋しましょう。

え? お姉ちゃん? 
呼んでるのは、お姉ちゃん?
そっか! ご飯の準備、できたんだ、
テーブル、用意するね、
うん、分かってるよ、……
(中略)
――これでしょ、はい、お姉ちゃん……

これは仇である鮫島保との決闘の最後のシーンです。凜はまるで姉に砂糖を差し出すように剣を「これでしょ、はい」と出して仇の喉をひと突きし、無意識のうちに勝利します。それがあまりにも自然でジャストタイミングだったので、剣の使い手である鮫島でさえ避けることはできません。前述の砂糖を差し出す描写は、実はここにつながっています。

 蘭は恋人の杉山から、既にプロポーズを受けていた。そのときは、妹が高校を卒業するまで待ってほしいと、一旦退けた。予想外の答えに、杉山は明らかにイラついた様子だった。振られることも覚悟したが、半年ほど、月二回のデートを重ねるうち、なんとか関係は修復できた。そして、今日である。
 わざわざ七夕の日に、私の行きたがっていたベトナム料理店に誘ってきた時点で、再度プロポーズされることはもう分かっている。前よりもさらに高価な指輪を用意していたらどうしよう? もちろん断るつもりだが、また彼のプライドを傷つけるのは明白で、心が痛んだ。
(今度こそ愛想を尽かされるかな……)
 溜息をついて、杉山の頼りない風貌を思い浮かべた。
 撫で肩に、薄い胸板、掴まったら引っこ抜けそうな腕、所在なく動く目と口角、甲高い声……。およそ男性的魅力とは無縁の存在だ。けど、
 ――私の話はちゃんと聞いてくれるし、凛のことも考えてくれている。
 いつかは、とは蘭も思っていた。ただ、今はまだ早い。最低でも凛が卒業して、できればあの子がやりたいことを見つけてから。それまではプロポーズは受け入れられない。
 自分の気持ちを改めて確認すると、ふいにある仮説が湧いた。
 ――私はそもそも、彼とは結婚したくないんじゃないの? その言い訳に妹をダシに使っているだけなのでは?…… 
 初めて浮かんだ考えに一瞬、呆然とした。そこから思考はひとりでに拡がった。
 凛は今まで、ここぞというときはちゃんとやってきた。高校受験だってそう。何度もそれを見てきたじゃない? 私と離れてもきっとちゃんとやれる、どうして信じてあげられないの? いや、信じてる、だから進学だって強要しなかった。じゃあ、いっそ、もう杉山さんと……
 蘭は出口の見えない思考を断ち切るかのように、立ち上がって食器を重ね、シンクに置きに行った。
 鏡を見る。表情が固まって、全然かわいくない。
(ダメよ! 今日はデートなんだから。)
 無理に微笑むと、火の元を確認して仕事に向かった。

凜の予想通り、今日は特別なデートのようです。ただし、蘭の気合いは再度プロポーズを断るためのものです。
 相手は杉山という男で、頼りないけどちゃんと自分と妹のことを考えてくれているという点は評価しています。と同時に、もしかしたら自分は妹をダシにして結婚を先延ばしにしているだけなのかもと考えます。女性の複雑な心理を描いたつもりですが、結局二階堂蘭はすぐ鮫島保に殺されてしまうので、この辺はうやむやになっています。
 とりあえず、ここは妹思いのしっかりしたお姉ちゃんという点が伝わっていればOKです。

「だから、さぁ、白鉢巻は仇討ち、の決意の象徴、なんだよぉ。」
 凛がいつも通り、昼休みに教室で友子を待っていると、斜め前の男子がキワドイ話を始めた。同じクラスの山田である。いつもは教室でお昼を食べないのに……
 ちらりと見ると、太った背中に、汗でシャツがびっちりと張り付いている。生まれつき息継ぎが下手なのか、いつも言葉が変な所で途切れる。
 山田は仇討ちオタクである。全国各地の仇討ち事例を蒐集しており、本人曰く、日本で十指に入る研究家なのだそうだ。
「そもそも、白、はこの、国では神聖な色と、されてるからね。洋服の、〈討ち〉さんでも、せめて白鉢巻はして、ほしいなぁ……。先日、のぉ、北九州のやつでは久々に、和装の、正統派が現れ、て、良かったよぅ、即効アップされてたなぁ、足だけは、スニーカー、だったけど。」
 山田は言い終わると、満足げに深呼吸をした。
 向かいに座っている目つきの悪いチビは、「どうせなら甲冑でも着りゃいいのに。」と茶化しながら、「大和会の元老のやつらも、まさか仇討ちまで合法化されるとは思ってなかったろうな。ま、俺らにしちゃハッパが麻薬って言われてた時代の方が信じらんねぇけど。」と、わざとダルそうに言った。

シーンは凜の通う学校に飛びます。ただ、学校生活を描くことが目的ではなく、もう少し踏み込んだ世界観を読者に知ってもらうためのシーンです。まずは仇討ちについて解説するため、仇討ち愛好家の山田とその友人を配置し、彼らに雑談させます。凜は友達を待ちながらなんとなしにそれを聴いているという設定にし、自然さを演出します。
 山田は説明のために登場させたキャラではありますが、本作前半である程度重要な役割を果たします。キモオタという設定なのでオタクっぽいしゃべり方を表現するため、あえて会話に読点を沢山いれました。

【山田は仇討ちオタクである。全国各地の仇討ち事例を蒐集しており、本人曰く、日本で十指に入る研究家なのだそうだ。】

と、ちょっとナレーションでの人物説明が多いですね。ここももっと人物を動かしながら描くべきだったと反省。

【「大和会の元老のやつらも、まさか仇討ちまで合法化されるとは思ってなかったろうな。ま、俺らにしちゃハッパが麻薬って言われてた時代の方が信じらんねぇけど。」】

という友達のチビの台詞で、大麻が合法化されているとわかります。そこからナレーションで細かい説明に入ります。最初から全部ナレーションだともっと事務的な印象になり、読者の読む気を削っていくような気がしたのでこうしました。

 チビが言うのは、〈温故革新〉を党是とし、2010年代後半から議席を伸ばしはじめ、2019年、ついに与党の座を勝ち取った〝革新的保守〟政党、〈大和会〉のことである。大和会政権下で、旧自衛隊が自衛軍に改編、売春、大麻は合法化され、国営の娼館や大麻を扱う店、通称〈コーヒーショップ〉が出現した。第二次関東大震災が起こる前、まだ東京があった頃である。
 当然のことながらマスコミ主導で世論は猛反発したが、改革の着実な成果――雇用の拡大、税収の増加による社会保障の充実、性犯罪の激減、出生率の上昇、観光業の賑わい――を受け、一部を残しメディアも国民も、次第になんとなく暮らしぶりの良くなったこの新しい世界に慣れていった。
 そこまでの大改革を推し進めた大和会元老たちさえ、〈新仇討ち法〉の施行は想像だにできなかっただろうとチビは言うのである。
 震災以降、関東を中心に治安は再び悪化、検挙率は著しく低下した。犯罪者は皆、旧東京に潜ったからだ。警察は悲鳴を上げた。果てしなく続く無秩序な瓦礫の海を、いったいどう捜査しろと言うのか?
 弱体化しつつもなんとか与党の座を維持していた大和会は、一大公共事業として、旧東京を覆う〈ウォール〉の建設に着手した。その〈ウォール〉の〝向こう〟へは誰でも自由に渡れるが、〝こちら〟へ入る際には身分証明書の提示を必要とする。これにより、犯罪者の自主的国外退去が促進できるとした。
 しかしこれには、『逃げ得』、『遺族の感情を無視している』と批判が上がった。犯罪被害者遺族会は、政府に対し連日糾弾を繰り返し、マスコミがその後を押した。
 政府はついに野蛮ともいえる解決策を打ち出した。それが、〈新仇討ち法〉である。これが意外にもすんなりと成立した。海外メディアは驚きと共にこの時代錯誤の法案の由来について、こぞって特集を組んだ。

ここで大和会という政党が登場します。2019年に与党となったことにしています(執筆は2012年)。大和会は長引く不況の打開策として、売春や大麻の合法化を行います。大麻については執筆時に世界的な合法化の流れがあったので、日本がそれに乗っかってもおかしくないだろうと考えました。実際2021年現在では世界各国で合法化の流れが加速しています。売春についても合理的に考えれば合法化してしっかりと税金を取り、同時に公衆衛生を国や地方でしっかりと管理した方が得策です。まあ単純に、大麻や売春といった刺激的なガジェットを挿入した方が小説として面白くなるというのが一番の理由なんですが。
 その後、第二次関東大震災が起こり(2027年)東京は壊滅、遷都します。後の流れはナレーション通りです。

(ダメだわ……)
 大和会は、友子の地雷だった。彼女曰く、『諸悪の根源』だそうだ。友子が来たら絶対議論になる……
 どうしようかとまだ開けていない弁当箱を持って立ち上がり、ふと廊下を見るとちょうど教室を覗く友子と目が合った。
「ごめーん、授業押しちゃってさぁ、数学の笠元のやつ――」
 片手で合掌しながら入ってこようとする彼女にあわてて駆け寄って、
「ね、今日雨降ってないからたまには外で食べない? 行こっ!」
 とめずらしく自分から提案し、強引に外へ押し出した。
 屋上に出ると、凛は安心して、友子に場所決めを任せた。屋上で食べる生徒は意外に多く、友子は場所を決めかねている。凛はいかにも梅雨らしい、薄い灰色の空を見上げた。ここ数日は曇りだったが、また明日から雨らしい。
「凛!」
 呼ばれた方を見ると、友子はフェンスにもたれ、あぐらをかいて弁当箱を開けている。凛はその向かいに座った。

そこへ反仇討ち派の友子が登場します。世界観の説明は終わったので、凜が友子を屋上に連れ出すという体で二人にし、今度は日常描写に移行します。

【屋上に出ると、凛は安心して、友子に場所決めを任せた。】

これは凜の優柔不断な性格を描写しています。

【いかにも梅雨らしい薄い灰色の空】【ここ数日は曇りだったが、また明日から雨らしい。】

と、季節感もしっかり描写。この辺は「セームセーム・バット・ディッファレン」で培ったものです。

【友子はフェンスにもたれ、あぐらをかいて】

ちょっとがさつな仕草で友子の性格を描写。
 などなど、なんでもないシーンですが、いろんなテクニックを使っています。

□ 

「あー、また野菜ばっか。」
 文句を言う肉食の友子に、
「いいじゃん、ヘルシーで。」
 凛の弁当は、昨日の残りのハンバーグがメインだった。
「一口食べる?」と友子に差し出す。
「ありがと。なんかさぁ、肉食べないと元気でないのよねぇ。」
 友子は大げさに喜んで、箸でハンバーグの隅を切り取り、頬張った。
「おいしー、蘭さんってホントよくできてるよね。キレイだし、料理上手いし、ねえ――」
 と、友子は前のめりになって、
「もうプロポーズとかされたの?」
 と目を輝かせた。
 凛は箸を止めて、今朝の姉の様子を思い出し、「うーん――」と首をかしげると、
「どうだろう、わかんない。なんか色々あるみたい。」
「なぁんだ……」
 友子は期待していた答えと違って、大げさに落胆した。
「そういうこともちゃんと話し合っといた方がいいよ。今日、デートなんでしょ? 蘭さん。七夕デートなんてフラグ立ちまくりじゃん! 帰ったらちゃんときいときなよ。」
 いつもの友子のおせっかいに、凛はまたさっきと同じように首をかしげて、「そだね。」とぎこちなく微笑んだ。友子は続けて、
「凛はさあ、どうなの? 蘭さんが結婚して、旦那さんと暮らすとしたら、寂しい? やっぱり結婚してほしくない?」
 凛に両親がおらず、姉の蘭が母親代わりだということは、もちろん知っている。
「いつかはそうなるって分かってるし、お姉ちゃんには幸せになってほしいけど、そうなったら私、いきなり一人になるからなぁ、それでお姉ちゃんも心配してるんだと思う。私、やりたいこともまだ見つかってないし……、でも、普通にバイトするだけじゃダメなのかなぁ……」
「凛にもそろそろ彼氏ができたらいいのにねぇ。凛は絶対引っ張ってもらう方がいいよ!」
「私は……別に、いいよぉ。」と、この話題を嫌ってすぐに、「今日何時に取れた?」と早口に続けた。
 友子はボックスの予約時間をまだ凛に告げていなかった。
「七時半。七時にK駅でいい?」
「うん、いいよ。じゃあ一旦帰ってからだね。」
「うん。何着て行こっかなー……あ、そういえば最近ヨシトがさあ、しょっちゅう射メ送ってくんだ、それが毎回髪型とかキメまくってて――」
 友子の話を凛は、どこか遠い世界のニュースのように聞いていた。

凜の友人の友子を描写しつつ、蘭の結婚や凜の将来について軽く言及し、プロットを若干進めます。強いて言えば、凜の優柔不断さを強調することが狙いです。

【凛に両親がおらず、姉の蘭が母親代わりだということは、もちろん知っている。】

読み返すと、こうしたナレーションがちょっとおせっかいな気がします。この程度の情報なら描写や会話で処理できたはず。

 放課後、凛は職員室に向かった。進路のことで担任の倉持に呼ばれている。
 センサーに反応して自動ドアが開くと、一礼して倉持のデスクを見たが、本人はいなかった。少し迷って、結局デスクの前で待つことにした。
 倉持心愛――
 そういった名前を付けるのが流行った時代だったらしい。
(可愛いけど、五十を過ぎて『ココアちゃん』はちょっとね……)
 奥のソファでは誰かが男性教師に説教を受けているようだ。
「だからお前、場所を考えろ、場所を。ここは学校で、学ぶところ。ハッパキメてたら授業受けられんだろうが? TPOだ、T・P・O!」
 声の主は、『T・P・O!』に合わせて机を三度叩いた。
 大麻は、例の改革により、十八歳以上であれば喫煙可能だったが、校内での所持、喫煙はもちろん禁止されている。生徒はそれを破ったらしい。男性教師のお説教を聞くともなしに聞いていると、倉持が戻ってきた。

ここでキラキラネームを過去の遺物として紹介しています。現在が2045年なので倉持は90年代後半の生まれになります。今考えれば、90年代だとキラキラネームにはちょっと早い気もします。もう少し若くした方がよかったかもしれませんね。
 また、大麻が合法化されている世界にもう少し馴染んでもらうために、学校で大麻を吸った生徒が教師に怒られているというシーンを挿入しました。生徒は十八歳なので違法にはなりません。ただの校則違反です。

「二階堂さん、ごめんなさい、お待たせして。」
 そう言いながらデスクまで来て、ゆったりとした動作でオフィスチェアに座ると、「椅子、お借りして。」と隣の席を優雅な手つきで示した。
 上から見ると白髪が目立ったが、染めるつもりはないらしい。
 座って向き合うと、倉持は早速切り出した。
「あなた、進路はどうするんですか? 卒業はたぶん大丈夫だと思うけど、就職する気はやっぱりないんですか? どこか探してるの?」
「えとぉ、とりあえずバイトします。」
 凛のふわふわとした返答に、倉持は一旦鼻から息を吐いて、ぎこちなく口角を上げた。
「まあ、ここまで来ればそれぐらいしかないんですけどね……何かやってみたいこととかないんですか? お姉さんは経済的には余裕はあるって、面談の時おっしゃってましたけど。」
 それについては凛も、姉から何度も聞かされていた。
『お金のことは心配しなくていいの、遺産は十分あるんだから、大学だって、専門学校だって余裕を持って行けるわよ――』
 とはいえ、ただ、なんとなしに決めた進路に両親の遺産を使うのは申し訳なかった。凛の返答を待たず、倉持は続けた。
「そういう生徒も、いることはいます。まあ、やけになって〈Last Paradise〉で一旗揚げるなんていうのよりかは遥かにましですけどね。」
 そう言いながら、諦めまじりにデスクを片付け始めた倉持を見ると、凛は急に反論したくなったが、議論を想像するとすぐにめんどくさくなって、口をつぐんだ。
「ん? どうかしましたか?」 
 倉持は凛の様子に気づくと手を止めて、もう一度彼女に向き合ったが、凛は、「いえ、……考えておきます。」と会話の終了をうながした。
 倉持は口角を上品に上げ、
「はい。じゃあまた来週ね、よい週末を。最近はまた関東でも辻斬りが増えてますから、遅くまで出歩かないこと、いいですね。」

担任の倉持が遅れてやってきました。

【上から見ると白髪が目立ったが、染めるつもりはないらしい。】

倉持は既に座っています。凜視点では倉持の頭頂部が見えています。女の子だから、髪が気になるだろうなと思い、倉持の白髪を一瞬気にするという描写を入れました。

【座って向き合うと、倉持は早速切り出した。】

極端に省略した文章です。倉持は既に座っている、凜は着席を促されている、凜と倉持は二人で話す、という流れなので、「誰が」「誰と」は入れなくてもわかるはずです。
 ちなみにそれらを正確に挿入すると、

【凜は座って倉持に向き合うと、倉持は早速切り出した。】

このように文章が重たくなります。主語の省略は著名な作家さんもよくやっているので、一度注意して読んでみましょう。

ここも凜の優柔不断な性格を描写することがメインです。将来やりたいこともない、ただふわふわと今の状況を生きている女の子。そんな子が事件に巻き込まれ、仇討ちを志し成長しているという流れをつくっています。

【「(前略)最近はまた関東でも辻斬りが増えてますから、遅くまで出歩かないこと、いいですね。」】

これはちょっとした伏線です。『辻斬り……? 近未来なのに?』と読者に興味を持ってもらえれば成功です。

 帰路。雲は薄い灰色から、ほとんど黒に近いほど濃く、分厚くなっている。凛はうなじの汗を軽く手で拭った。今年の梅雨は例年よりかなり長く、その分夏が短くなるらしい。夏の予定は特になかったが、少し損をした気分だ。
 凛は一人になると、改めて進路について考えを巡らせた。そもそも、はっきりとした進路を決めかねていることについて、先生や友達が心配する理由が未だによく分からなかった。バイトして、最低限の生活費を稼ぐ。それじゃあダメなのだろうか? 何がダメなの? 金額? コヨウケイタイ? 保険とかのこと? 世間体?
『目的を持って』と言う。『最低限の生活費を稼ぐ』ということが立派な目的だと思っていたのだが、どうやらそれではダメらしい。バイトして最低限の生活費を稼ぐ。お父さんやお母さんがいれば、反対されるのだろうか? お姉ちゃんは、やりたいことを自分で見つけろ、それがなんであれ応援する、としか言わない。進路のことで両親ともめているクラスメイトの話を聞くと、うちは楽でよかったと、いつもほっとする。けど、どこか寂しい気もした。
『自分がない。』
 大人たちは口を揃えたようにそう言けど、凛にはその意味がよく分からなかった。自分はここにいて、息をして、生活している。その自分が、自分でお金を稼ぎ、最低限の生活を営む。それでもやはり『自分がない』のだろうか? では、目的もないままなんとなく就職や進学をすることが『自分がある』ということなの? 倉持にそう反論するつもりだったが、結局いつものようにうやむやにした。
 思索が途切れると、急に蒸し暑さが増した気がした。

日常シーンの締めに、凜自身に煩悶させ、主体性のないふわふわした性格を描写します。それと梅雨時の鬱屈とした気候を織り交ぜて、不穏な空気を醸し出そうとしました。ちなみに、こうした曇りや雨の描写は最後の最後まで続きますが、仇討ち成功後、退院した凜が見る景色、

【おびただしい光の先を見て、一瞬目を閉じる。そこに広がる無限の青空を想像して、凛は生きようと思った。】

ここにつながります。鬱屈した天気の描写は、言うなれば長い長い前振りです。

(試し読み終了)

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